ドストエフスキー『白痴』(The Idiot)どの翻訳を読むべきか1―英語訳・日本語訳徹底比較【ネタバレ無し】

レビュー

(AIにより生成したイメージ画像を使用しています。)

【この記事に『白痴』のネタバレはありません。】

英語でドストエフスキーを読むのが大好き、ヒデです。

ドストエフスキー四大小説の一つ『白痴』(英語題 “The Idiot”)。

純真なキャラクターである主人公ミシュキン公爵とナスターシャとアグラーヤという二人の美女をめぐる恋愛模様が衝撃的な展開につながっていく、四大小説のなかでも僕が特に気に入っている作品です。

読んでみたいと思っている方も多いのではないでしょうか。

どの翻訳を読んだらよいか、ネタバレしないように、『白痴』前半部分から、ストーリーの重要部分に触れない複数の箇所をピックアップし、複数の英語訳と複数の日本語訳を徹底比較していきます。

なお、僕は、アグラーヤ・エパンチンを、愛しています。

日本語訳のひどさ。英語訳のすばらしさ。

ドストエフスキーの作品に「難しい」「読みにくい」というイメージを持っている方は多いと思います。

僕も学生時代、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を日本語訳で読んだ経験がありました。

有名な作品だから一応読んでおこうというくらいの気持ちで読んだのだと思います。

しかし、当時は、「なんだか難しいな」と感じ、正直、あまり面白いとは思っていませんでした。

日本語訳に読みにくさを感じていたのです。

ところが、社会人になって英語訳により読んだドストエフスキーに対する印象はまったく違いました。読了時に感じたカタルシスは僕がこれまでの人生において経験したことがないものでした。

そこには、社会経験や読解力の向上も若干影響はあったと思います。

しかし、そのような僕の能力の変化による影響は限定的でした。

原因は、日本語訳のひどさと英語訳の素晴らしさにあったのです。

日本語訳と英語訳とでは、何より、翻訳のクオリティーが明らかに違ったのです。これは、英語、ロシア語、日本語の言語間の距離に起因すると思われます。

もちろん、トルストイやドストエフスキー作品の原語はロシア語なわけで、ロシア語で読むことができればそれが最も望ましいことは言うまでもありません。

しかし、ロシア語を読めるようになるには相当な労力と時間を要すると思われます。

ところが、ロシア文学の英語訳を読みたいという気持ちさえあれば、直ちに、読むことができるのです。この点については次の記事もご参照ください。

とはいえ、英語訳より日本語訳で読みたいという方も多いと思います。

同じ『白痴』日本語訳といっても、誠実な翻訳で、ある程度正しくわかりやすくドストエフスキーのイメージを伝える翻訳から、極めて劣悪な翻訳まで、翻訳ごとに顕著な差があります。

この記事の概要

この記事は、これから『白痴』を読みたいと思っている皆様に向け、

  • 英語訳で読むべき理由
  • どの英語訳で読むべきか
  • どうしても日本語訳で読むというのであればどの日本語訳を読むべきか

について、複数の英語訳・日本語訳を徹底的に検証していきたいと思います。

今回の記事には、僕の長年の読書仲間であるロキさんに登場していただき、対談形式でお伝えしていきます。

メンバー紹介

まずは、対談メンバーである、僕とロキさんについて紹介。

ヒデ(僕)

男性。社会人。英語とフランス語の読書が大好き。海外経験なし。仕事で英語とフランス語を使うことはあまりない。ただただ英語とフランス語が好き。

もともとは日本語の読書を愛好しており、ドストエフスキー作品も日本語訳を読んだことはあったが、特に面白いとは思っていなかった。

たまたま村上春樹作品の英語訳を読んでみたところ、あまりの衝撃で以後英語でしか読書できないようになる。

その後、ドストエフスキー、トルストイの作品を英語訳で読み、ロシア文学の真の面白さに気が付く。

読了したロシア文学とその時期は次のとおり。いずれもRichard Pevear and Larissa Volokhonsky(P&V)による英語訳。

  • ドストエフスキー『罪と罰』英語訳(約20万語、2023年1月読了)
  • トルストイ『アンナ・カレーニナ』英語訳(約40万語、2023年5月読了)
  • ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』英語訳(約35万語、2023年10月読了)
  • ドストエフスキー『白痴』英語訳(約20万語、2024年6月読了)

2023年10月に読了した『カラマーゾフの兄弟』英語訳のカタルシスが凄すぎて、誰かにそれを語りたいあまり、英語読書の面白さを共有できるメンバーを求める活動を開始する。

2024年6月、『白痴』英語訳読了当時、読書会がひとつも始動しておらず、その英語訳のすばらしさを共感できる相手がいないことにモヤモヤしていたところ、そのフラストレーションをすべてロキにぶつけたことにより、周囲のひんしゅくを買うほどの激論となる。

ロキとの激論に備えるため、ドストエフスキーのニュアンスを英語で正確に伝えるP&V訳に加え、

  • 19世紀後半から20世紀初頭の翻訳であり、すでにパブリックドメイン化しているコンスタンス・ガーネット訳 The Idiot(Garnett訳)
  • わかりやすく正確な英語訳に定評のあるペンギンクラシックス所収のDavid Macdaff訳 The Idiot(マクダフ訳)

を追加で読んだ。

ロキ

女性。ヒデの同業者であり、ヒデが日本語で読書をしていたころからの長年の読書友達。ヒデを親しみと若干の蔑みをこめて「ヘンタイ」と呼んでいる。いつも読書の話が盛り上がりすぎて、腐れ縁を断ち切れない。

たいへんな読書家。ヒデと同じく、ドストエフスキーやトルストイといった重厚なロシア文学を好む。英語が読めないわけではないが、ヒデがいくら勧めても英語では読もうとせず、かたくなに日本語訳を読む。

ロシア語をたしなむ。

2024年6月、次の3つの日本語訳により『白痴』を読了。

  • 木村浩訳 新潮文庫
  • 望月哲男訳 河出文庫
  • 亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫

英語訳を読了して興奮状態にあったヒデと、周囲がドン引きするくらいの激論になる。

翻訳の評価基準と結論

いかに近いイメージを想起させるか

僕は、翻訳において最も重要なのは、異なる言語を用いて、原作者の意図したイメージをできるだけ損なうことなく、伝えることだと考えています。

すなわち、原文により想起されるイメージといかに近いイメージを想起させることができるかにより、翻訳の優劣がきまると考えます。

結論

先に結論を言います。

ロシア語を読めない人が『白痴』の真の魅力を味わうには、P&Vによる英語訳が圧倒的におすすめです。

英語訳は、ロシア語と英語の言語的近さに加え、優れた翻訳家の存在により、圧倒的に、正確で読みやすくわかりやすく、ドストエフスキーの原文のイメージを伝えているのです。

英語読書を少しでもかじったことがある人であれば、必ずドストエフスキーの英語訳を読むことができますし、楽しむことができます。

ぜひ、皆様もドストエフスキーを英語訳で読んでいただきたいところです。この点については、次の記事もぜひご参照ください。

それでも、日本語で読みたい思っている方も多いと思います。

そこで、あえて木村訳、望月訳、亀山訳の各日本語訳についてランキング付けすると、次のような結論になります。

これは僕とロキさんの一致した結論です。

  • 1位 望月哲男訳 河出文庫
  • 2位 木村浩訳 新潮文庫
  • 圏外 亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫 

なぜ、このような結論になったのか、これから3つのテーマに基づき理由を説明します。

まず、一つ目のテーマです。

テーマ1 エパンチン家の食事に関する問題(第1部4より)

エパンチン家の食事

ロキ:第1部4、ミシュキン公爵がエパンチン将軍宅を訪れ、美しいエパンチン三姉妹とその母親に出会う場面に疑問があります。

エパンチン家の食事の場面です。

提供された料理の一つについて、3つの日本語訳がそれぞれ異なりすぎていて、ちぐはぐ。なぜこのようなことになったのだろうか。

  • 木村訳:ハンバーグ・ステーキ
  • 望月訳:メンチカツ
  • 亀山訳:カツレツ

3つの訳を比較するに、原文は、「カツレツ風にしたミンチ肉」ということになるのだろうと思われる。

英語訳がどうなっているか、教えて、ヒデ。

3つの英語訳

ヒデ:ロキさんご指摘のエパンチン家の食事シーンにおける問題は、日本語と英語の翻訳事情の違いを象徴していると思います。

これから、「問題の料理」と呼称して検討を進めます。

以下、3つの英語訳から該当箇所を引用します。「問題の料理」を黄色でハイライトします。

Garnett 訳(1913年)

At half-past twelve the table was laid in the little dining-room next to their mamma’s apartments, and occasionally when the general had time, he joined this family party at lunch. Besides tea, coffee, cheese, honey, butter, a special sort of fritters beloved by the lady of the house, cutlets, and so on, strong hot soup was also served.

P&V訳(2002年)

At half-past twelve the table was laid in the small dining room, near the mother’s rooms, and occasionally the general himself, time permitting, joined them at this intimate family lunch.  Besides tea, coffee, cheese, honey, butter, the special pancakes the lady herself was particularly fond of, the cutlets, and so on, they were even served a strong, hot bouillon.

David McDuff 訳(2004年)

And at half-past twelve the table would be laid in the small dining room, near the mother’s rooms, and this intimate family breakfast was sometimes attended by the general himself, if time permitted. In addition to tea, coffee, cheese, honey, butter, the special thick pancakes that were the favourite of the general’s wife, rissoles and so on, a strong, hot bouillon was even sometimes served.

その他のメニューとBouillion(ブイヨン)

ヒデ:まず、前提として、この文章に含まれる他のメニューについても確認しておきます。

P&Vの該当箇所を見てください。

Besides tea, coffee, cheese, honey, butter, the special pancakes the lady herself was particularly fond of, the cutlets, and so on, they were even served a strong, hot bouillon.

お茶、コーヒー、はちみつ、バター、エパンチン夫人お気に入りの特別なパンケーキ、「問題の料理」はすべて並列で、エパンチン家のメニューの充実ぶりを示しています。

そのうえで、この文章のメインは並列された料理に加え、「hot bouillion」が提供されていることの指摘です。

この点、Garnett 訳は、「soup」となっていますが、P&Vが「bouillion」、マクダフも「bouillion」となっており、「soup」がより具体化されたものが「bouillion」と考えられます。

そこで、エパンチン家族にサーブされていたスープは、「bouillion」であることを前提に検討を進めます。

「bouillion」とはいったいどのようなものなのでしょうか。

ロキ:Bouillon(ブイヨン、フランス語)は、主にフランス料理において、スープのベースとして用いられる肉と香味野菜からとる出汁のことです(wikiから引用)。

ヒデ:なるほど、そうすると、エパンチン家は裕福な家庭で、充実した食事が提供されており、「問題の料理」を含めた豊富なメニューが提供されているうえ、さらに、ブイヨンも提供されていることから、それがフランス料理を意識したものと考えることができそうです。

「問題の料理」英語訳

次に、「問題の料理」については、

  • Gurnett訳:cutlets
  • P&V訳:the cutlets
  • マクダフ訳:rissoles

と訳が分かれていました。

cutlets について英語圏においては、フランス料理の「コートレット」または、そこから派生した料理を指すということで、グーグル画像検索すると、日本におけるメンチカツまたはコロッケのようなイメージで画像がほぼ一致します。

一方、マクダフ訳における「rissloles」についてグーグル画像検索すると、日本におけるハンバーグのようなイメージの画像でほぼ一致しています。

ロシア原語「котлета」(コトレータ)

ロキ:原文が気になりロシア語を確認したところ、ロシア語原文では「котлета」(コトレータ)でした。

ロシア語で単にкотлетаと言った場合は牛挽肉で作ったハンバーグとよく似たタネにパン粉をまぶして揚げたものを意味するらしい。

котлетаでグーグル画像検索すると、cutlets で検索した画像、rissoles で検索した画像それぞれに近いイメージが半々だということがわかります。

ヒデ:これは、英語の場合、cutlets と訳すべきか、rissoles と訳すべきか相当悩ましいですね。

ここで、先述のbuillionがフランス料理を想起させるものであったことに照らし、ロシア料理「котлета」に近いイメージを想起させつつ、フランス料理の「コートレット」と結びつくということで、 cutlets は非常に相性がいいと思います。

ロキ:日本人に対して、котлета本来の有するイメージである、「牛挽肉で作ったハンバーグとよく似たタネにパン粉をまぶして揚げたもの」をイメージさせようとすると、望月訳のメンチカツが最もしっくりくる。

また、木村訳のハンバーグ・ステーキも、マクダフ訳における「rissoles」に近い意図を感じ、悪くない。

メンチカツとハンバーグどちらのイメージに寄せるかは、正解はなく悩ましい問題だと思う。

亀山訳の問題点

ヒデ:なにはさておき、亀山訳の「カツレツ」は最悪です。

日本人が日本語で「カツレツ」と言われたら、日本で見る「カツレツ」か酷ければトンカツを想起してしまいます。

一気にイメージが色あせる気がしませんか?

亀山訳はロシア語原文における「котлета」を読まず、それこそP&V訳の「cutlets」でも読んで、適当に「カツレツ」という訳を当てた疑いすらあります。原文の「котлета」(コトレータ)を読んで、グーグル画像検索をするだけで「カツレツ」があり得ないことは一目瞭然なのですから。

この点、僕は日本語訳を読むことはありませんが、望月訳はさすがだと感じますし、木村訳はマクダフ訳に近い努力を感じ、好感がもてます。

ロキ:率直に言って、亀山訳は、言語の背景にあるロシア社会や文化についての理解が非常に弱いのか、そういった背景に配慮する気が無いのか。

慣用句、掛詞、通称など、字面どおりに訳してはいけない言葉が出てきたときに、正しく訳せないことが非常に多い。以下に二つほど例を示しておく。

  • 「オランダ金貨」→「オランダで発行された金貨」ではなく、ロシア政府発行の3ルーブリ金貨の通称(※木村訳でも誤訳)
  • 「一族最後の者(女性)」→掛詞として使われ、笑いの種になっている。これは木村訳の訳注が素晴らしく、「ロシア語では最後の者はいちばんの屑をも意味する」。望月訳では、「一種の最低の女性」。

次回予告

『白痴』の本筋とは全く関係のない、料理の品名一つでこれほどまでに翻訳には差が現れます。

次回、さらに、より重要な箇所について(ただしネタバレはなし)2つのテーマについて翻訳を比較していきます。

英語訳の優れた点、翻訳者の悩み、劣悪な翻訳の問題点などがより鮮明になっていきます。

『白痴』を日本語訳で読むのであれば、望月哲男訳(河出文庫)

英語訳(The Idiot)で読むのであれば、P&V訳(ヴィンテージクラシックス)

がお薦めであることがより明らかとなっていきます。

ご期待ください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました