Never Let Me Go 冒頭第一段落
英語読書が大好き、ヒデです。
前回の記事では、
Never Let Me Go(https://amzn.to/4vknwKV 邦題『わたしを離さないで』)
について、なぜ、これをスタイリッシュ英語読書会最初の課題図書に選んだのか、この読書会をどのように進めていくのかを説明しました。
今回の記事では、Part 1, Chapter 1 の第一段落を読書会のメンバーたちとの議論を通じ、徹底的に検証しようと思います。
(この読書会のコンセプトやメンバー紹介はこちら)
この記事では、第1章の第一段落だけに言及するので、ネタバレはありません。ご安心ください。
冒頭引用
Never Let Me Go のページを開くと、まず、
England, late 1990s
との記載があり、Part 1, Chapter 1の表題に続いて、冒頭の第一段落が次のように始まります。
My name is Kathy H. I’m thirty-one years old, and I’ve been a carer now for over eleven years. That sounds long enough, I know, but actually they want me to go on for another eight months, until the end of this year. That’ll make it almost exactly twelve years. Now I know my being a carer so long isn’t necessarily because they think I’m fantastic at what I do. There are some really good carers who’ve been told to stop after two or three years. And I can think of one carer at least who went on for all of fourteen years despite being a complete waste of space. So I’m not trying to boast. But then I do know for a fact they’ve been pleased with my work, and by and large, I have too. My donors have always tended to do much better than expected. Their recovery times have been impressive, and hardly any of them have been classified as ‘agitated’, even before fourth donation. Okay, maybe I am boasting now. But it means a lot to me, being able to do my work well, especially that bit about my donors staying ‘calm’. I’ve developed a kind of instinct around donors. I know when to hang around and comfort them, when to leave them to themselves; when to listen to everything they have to say, and when just to shrug and tell them to snap out of it.
皆様は、この段落を初めて読んだとき、どのようなことを感じたでしょうか。
または、何も感じなかったでしょうか。
面白いと感じたでしょうか、退屈と感じたでしょうか。
シンプルで読みやすいと感じたでしょうか、複雑な文章で読みにくいと感じたでしょうか。
何か違和感があったでしょうか。
恐るべき冒頭
実は、この段落は、僕が、これまで読んだあらゆる本のなかで最も優れた第一段落だと思っています。およそ小説の冒頭は、その小説の第一印象を形作るものあり、その重要性はあえて言うまでもありません。
優れた導入がなされる小説を読めば、読者は一挙にその世界に没入することができるようになるのです。
カズオ・イシグロにより生み出されたこの第一段落は、間違いなく、現代英文学を代表する名文であり、イシグロの天才性を凝縮した段落になっているのです。
場所・年代、第1部、第一章のタイトルがあって、第一段落。
順番に検討していきたいと思います。
まず、ページを開くと目に入るのが場所と年代です。
場所と年代
England, late 1990s
ヒデ:1ページに、この3語だけが記載されている。これを読んでどう感じたでしょうか。
コウキ:1990年代後半のイングランドを舞台にした物語なんだなと漠然とした印象を抱きました。
ヒデ:同感です。多くの皆様も、イングランドが舞台で、1990年代後半の物語であり、これは、ファンタジーのような架空の世界を舞台にした小説ではなく現実世界を舞台にした小説なんだな、大昔の出来事に関する歴史小説ではなく、現代を舞台にした小説なんだなという感覚を抱いたのではないでしょうか。
しかし、実は、すでに、この場所と年代を示す3単語に、イシグロの壮大な仕掛けが仕組まれており、わずか3単語で、僕たちはイシグロワールドに引きずり込まれることになっていたのです。
語り手の違和感
語り手の名前
次に、第一章第一段落冒頭第1文です。
My name is Kathy H.
ヒデ:この第一文を読んでどう感じましたか。
タク:これ以上ない簡単な英文だと感じました。さすがにこの文章の意味がわからない日本人はいないのではないでしょうか。
ヒデ:たしかに、非常に簡単な英文です。この小説がKathy Hと名乗る人物による一人称小説であることがわかりました。また、Kathyは女性のファーストネームのように思え、女性の視点からの一人称小説ではないかと読めます。
しかし、何かおかしくないですか?
ヒナ:「H」って何?という疑問がわきます。英語圏の名前って、ふつうは、ファーストネームを省略して大文字で表記し、ファミリーネームはフルで表記しますよね。
Kathyは明らかに女性のファーストネームです。
では、彼女のファミリーネームは?
「H」はファミリーネームを省略したもの?
ファミリーネームを省略するってどういうこと?
コウキ:自分が知る英語圏の人名は、J・K・ローリング、C・S・ルイス、J・R・R・トールキンなどなどだいたいが、ファーストネームとミドルネームを省略し、ファミリーネーム(ラストネーム)は表記することがほとんどで、ファーストネームだけ表記するというのは非常に不自然と感じます。
ヒデ:皆様ご指摘のとおり、この名前は何かがおかしいです。もちろん、イシグロは、これにも恐ろしい仕掛けを用意していました。
Never Let Me Goは、「My name is …」などという尋常でなくシンプルな英文から始まります。英語として意味が分からなかった方はいないでしょう。
ところが、この超絶シンプルな、意味の間違いようがない英文が、すでに、恐るべき深みをもっているのです。
語り手はいったい何者なのか?
年齢と経歴
ヒデ:イシグロの英文のもつ恐ろしさは、まだまだこれからです。第2文を読んでみてください。
I’m thirty-one years old, and I’ve been a carer now for over eleven years.
コウキ:これまた、超絶簡単な英文ですね。自分が英語で自己紹介するときにもパッと頭に浮かびそうな文章です。
ヒデ:Kathy は31歳で、どうやら「a carer」という職業で、11年以上の経験があるんだなということがわかります。これを聞いてどう感じましたか。
コウキ:僕は、大学生で11年仕事を続けるという感覚はいまいちわかりませんが、バイト基準でいえば長いなと感じます。
タク:バイトなら確かに長いと言えるかもしれません。しかし、「a carer」は何かしらの専門職であるような印象です。31歳といえば専門職についている社会人としては比較的若いなという印象です。
また、すでに a carerとして11年以上の経験となると、20歳で就職したことになり、専門職への就職時期としては結構早いなと感じます。
それでも、特定の職業で11年ていうのは、まだまだ若手か、中堅になりたてくらいのもので、ベテランというにはまだまだほど遠いという印象です。
僕は、ヒデさんと同業者ですが、僕たちの業種だと、せいぜいこれから中堅、まだ若手と言われていてもおかしくない年数ですよね…
ヒデ:たしかに、僕とタク君は同じ業種の専門職ですが、それなりの経験が必要な業種で、11年だと若手と中堅の間くらいというイメージですね。ヒナさんの業種もそうですよね?
ヒナ:私は、ヒデさんやタク君とは別の業種ですが、私の感覚としても11年が経歴として、長いという感覚はありません。
ヒデ:そうですよね。ところが、第3文は予想外の反応を読者に返してきます。
That sounds long enough, I know, but actually they want me to go on for another eight months, until the end of this year.
この第3文も英語として難しい語彙・文法は一切なく、スッと意味は理解できたのではないでしょうか。
しかし、その内容は一筋縄ではいきません。
語り手であるKathy自身は自分の11年の経歴を「長い」と評価しています。ここで、僕やタク君、ヒナさんの感覚とKathyの感覚に大きなずれが生じています。
31歳の専門職が11年の経歴を「十分に長い」と評価することに、僕は、違和感を禁じえません。およそプロを名乗る専門的な職業の場合、11年程度では、少なくとも、長いと評価されるものではないように感じるのです。
もちろん、ある経歴を長いと評価するか短いと評価するかは、その内容によって、相対的に決まる問題であり、まわりがあまり長続きしない職であり、11年だと長いと言われる職種もあるとは思います。たとえば、周囲の人が2~3年で辞めてしまうような仕事であれば、数年でベテランと呼ばれることもあるでしょう。
そうすると、Kathy Hの周りには、同じ経歴で10年以上継続した人がたくさんはいないということでしょうか。
They とは?
ヒデ:次に、唐突に「they」が出てきます。すでに第一文でこの小説が一人称視点で語られていることがわかっていました。
小説を読む場合、その視点をまずはっきりさせることが重要です。
特に一人称小説の場合は、視点となる人物が「誰に」話しかけているのかを意識することは非常に重要です。
広く一般読者に語り掛けている場合は、一人称視点からすべての事実が語られることになるのですが、特定の対象に語り掛けている場合、語り手と聞き手の共通認識となる事項については省略が許されることになるからです。
いきなり、冒頭第3文で唐突に「they」が出てきたことから、「they」は、この文章の語り手と聞き手が共通認識として有している前提事実となると考えられます。
そのため、Kathy Hはいったい誰に語り掛けているのか、「they」とは誰なのかが疑問として浮上してくることになるのです。
「donors」「donation」について―英語によりイメージすることの重要性
ヒデ:少し先に進んで、次の表現を読んでみてください。
My donors have always tended to do much better than expected. Their recovery times have been impressive, and hardly any of them have been classified as ‘agitated’, even before fourth donation.
ヒデ:これらの文章により、「a carer」が扱う対象が「donor」であること、「donors」が行うことが「donation」であることがわかります。ヒナさん、これらの英単語からどのような印象を受けますか。
ヒナ:英語のdonation は、お金を寄付するというイメージがありますから、何らかのお金を持っている人たちなのでしょうか。
ヒデ:さすがヒナさん。「donation」という英単語の有する正確なイメージをもっていらっしゃる。
グーグル翻訳などで簡単に見ることができる英英辞書の説明は次のようになっています。
donor: a person who donates something, especially money to a fund or charity.
donation: something that is given to a charity, especially a sum of money.
「donation」 は「お金」を寄付する行為であり、「donor」はお金のイメージを想起させます。
で、これが本当に大事なのです。
じつはここに、イシグロの最も重要な仕掛けがあるのですが、その仕掛けを十分に味わうには、この英単語が有する「お金」のイメージそのものを味わう必要があるのです。
Kathy はなにやらお金を持っている人たちを「care」しているようだぞ……。
しかし、何か文脈がおかしい。
- recovery time(回復時間)
- agitated(動揺状態)
- fourth donation(4回目の“何か”)
いずれも「お金」のイメージと微妙に整合せず、実は、すでに、
「donation」の意味が揺さぶられ始めているのです。
第一段落の雰囲気。
ヒデ:以上を踏まえて、この段落全体が有する雰囲気について、どのように感じたでしょうか。
ヒナ:とても明るい雰囲気を感じました。自分の経歴を楽しそうに紹介している、そこには若干、自分の仕事に対する誇りのようなものも感じました。
ヒデ:どのようなところからそれを感じたでしょうか。
ヒナ:次の文章が根拠です。
So I’m not trying to boast. But then I do know for a fact they’ve been pleased with my work, and by and large, I have too.
…中略…
Okay, maybe I am boasting now.
ヒナ:boast の意味について、英英辞書は、
boast: talk with excessive pride and self-satisfaction about one’s achievements, possessions, or abilities.
と説明しています。
日本語にすると「自慢する」となりますが、そこには「excessive pride (行き過ぎた誇り)」や、「self-satisfaction (自己満足)」などといった意味合いが込められており、どちらかというと「自惚れ」に近いニュアンスが込められていると思います。
そうすると、上記の文章の構造はこうなります。
「べつに自慢しているわけじゃないんだけど」→「わかったわ、たぶん私は自慢しているんでしょう」
という構造となり、そこにはどこか明るく自分のキャリアを自慢している響きがあります。
ヒデ:なるほど。僕もヒナさんのご指摘どおりだと思います。
さらにその後、第一段落末尾を見てください。
I’ve developed a kind of instinct around donors. I know when to hang around and comfort them, when to leave them to themselves; when to listen to everything they have to say, and when just to shrug and tell them to snap out of it.
そこには、Kathyの自分の能力に対する誇りまたは自惚れのような雰囲気を感じ取ることができます。
そうするとなにか、これから、自分のキャリアにまつわる面白い話でも始まるのではないかという雰囲気があります。
しかし、一方で、どこか普通ではない違和感に満ちています。
実は、この第一段落における明るい雰囲気自体がカズオ・イシグロによる壮大な仕掛けとなっており、しかも驚くべきことに、上で取り上げたすべての違和感に対し、イシグロは答えを用意していたのです。
とりあえずのまとめ
ここまで見てきた英文に、おそらく難しい点は全くなかったのではないでしょうか。
あえていうなら boasting が少し見慣れない単語だったかもしれませんが、難しい単語も複雑な構文も一切ありません。
むしろ非常に簡単な英語と感じた方が多いのではないでしょうか。
これだけ簡単な英文による第一段落で、これだけの違和感を生じさせ、読者の期待を高める。
カズオ・イシグロの英文の有する底知れぬ深みの一端を垣間見ることができたのではないでしょうか。
この段落が真に意味することが何なのかを知りたいと思うだけで、Never Let Me Goの今後の読書が楽しくワクワクするものになっていくと思います。
シンプルで読みやすい英語であるにもかかわらず、イシグロの文章は圧倒的に骨太です。
面白い英文と向き合えば、内容そのものが気になって、ワクワクして、英単語だの英文法だのといった些末な問題はすぐに雲散霧消します。
ワクワクしてしまえば、英単語や英文法の勉強などどうでもよくないですか?
楽しんだもの勝ちです。
次回に向けて
さて、次回についてです。
次回の記事を読む前に、
Never Let Me Go(https://amzn.to/4vknwKV)のPart 1, Chapter 1 から Chapter 7 の終わりまでを一気に読んでください。
モヤモヤしたり、よくわからないと思うことがあっても振り返らず、第7章まで読み通してください。
ちょっと退屈だなと思っても我慢して、騙されたと思って、とにかく第7章まで読んでください。
そうすると、Part 1, Chapter 7には、次の一文で始まる段落があります。
But Miss Lucy was now moving her gaze over the lot of us.
この段落を初めて読んだ際、あなたは何を感じたでしょうか。
次の記事では、この段落に至る流れ、この段落のもたらす効果などを読書会のメンバーと議論していきます。
いよいよ、Never Let Me Go が、そのすさまじい本性をあらわにします。
ご期待ください。



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