ドストエフスキー『悪霊』英語訳比較読書会2 第2エピグラフ聖書ルカ福音書が象徴するもの【全面的ネタバレ】

『悪霊』第2エピブラフの情景と関連して、湖を望む崖、遠方の山々。 ドストエフスキー英語訳比較

(AIが生成したイメージ画像を使用しています。)

英語とフランス語の読書が大好き、ヒデです。

ドストエフスキーの『悪霊』を読んでみたけれど、

「なんだか難しい……」

「途中で読むのをやめてしまった」

「最後まで読んだけれど、結局、何が面白いのかわからなかった」

そんな経験はありませんか?

実は、僕はそういう方にこそ、この読書会の記事を読んでいただきたいと思っています。

なぜなら、『悪霊』は、ネタバレしてからが本番だからです。

(前回の記事では、このことを詳しく取り上げました。ご参照ください。)

ドストエフスキー『悪霊』英語訳比較読書会1 導入――ネタバレしてからが、本番だ。
ドストエフスキー英語訳比較読書会、2冊目の課題図書は、『悪霊』。四大小説中最難関の小説である一方、その実態からもたらされる衝撃は『罪と罰』『白痴』を超える。その実態に迫るためには英語訳の比較が不可欠。日本語訳の問題点も参照することで、さらなる深い理解を目指す。

【重要】この記事は全面的にネタバレします!

今回の読書会では、メンバー全員が『悪霊』を既に一度通読していることを前提として、ネタバレを全面解禁しています。

したがって、この記事も、

  • 『悪霊』を一度以上読み、物語の結末を知っている方
  • 未読でもネタバレをまったく気にしない方
  • 一度挫折したけれど、物語の全体像を知ってから再挑戦したい方

に向けたものです。

ニコライ、ピョートル、キリロフ、シャトフ、ステパン、そして、リーザ……。

彼らの運命についても、遠慮なく結末を明示して議論していきます。

最初から結末を知っているからこそ見えてくる『悪霊』の世界。

むしろ、全体像を把握していないと、その深みは見えてこないと思うのです。

僕たちは、誰よりも深く、深く、『悪霊』の世界に潜っていきます。

メンバー3人が読むテキスト

今回から、2026年2月に開催した『悪霊』英語訳比較読書会の第1回で議論した内容を紹介していきます。

メンバーは、僕ことヒデ、コウキ君、そしてアドバイザーのロキさん。

僕が読むDemonsは、ドストエフスキーのニュアンスを、英語で、極めて正確に伝える、

Vintage Classics版のRichard Pevear & Larissa Volokhonsky訳(P&V訳)。

コウキ君が読むDemonsは、わかりやすく正確な英語訳に定評のある、

Penguin Classics版Robert A. Maguire訳(マグワイヤ訳)。

ロキさんが読むのは、日本語訳。

現在、比較的、入手しやすい、次の3つの日本語訳を参照してもらいました。

  • 江川卓訳(1971年、新潮文庫)
  • 米川正夫訳(1959年、岩波文庫)
  • 亀山郁夫訳(2011年、光文社古典新訳文庫)

(僕とコウキ君で実施している、ドストエフスキー英語訳比較読書会のコンセプトはこちら。)

ドストエフスキー英語訳比較読書会 Introduction
ドストエフスキー四大長編を複数の英語訳で読み比べ、その作品がもつ圧倒的な深みと魅力に迫ろうとする読書会の紹介記事。「罪と罰」「悪霊」の具体的な翻訳比較を通じて、英語で読む意義と新たな読書体験を提案します。

(僕とコウキ君がそれぞれ、なぜ、その英語訳を選択したかについては、次の記事を参照。)

ドストエフスキー英語訳比較読書会 Introduction 2―どの英語訳を読むべきか
ドストエフスキー英語訳比較読書会の導入記事の続き。どの英語訳を読むべきかについて、『白痴』の複数の翻訳を具体例に検討。P&V訳の優れた点とペンギンクラシックスシリーズのわかりやすさ。

二つのエピグラフ

で、いきなりなんですが、

今回、僕たちが取り上げるのは本文ではありません。

小説本文が始まる前に置かれた二つのエピグラフ(epigraph)です。

エピグラフ(epigraph)とは、文学作品の冒頭に配置される、他の文学作品などからの短い引用文です。

一般に、作品の主題を暗示したり、雰囲気を醸し出したり、読者に解釈の手がかりを与えたりする役割を有しています。

もちろん、エピグラフが作品の読解にとって重要な意味を持つことは珍しくありません。

ただ、それは多くの場合、間接的なヒントであったり、何かを匂わせるという程度のものです。

しかし、『悪霊』の場合、その重要性は並大抵ではないのです。

ドストエフスキーのいわゆる四大小説、

『罪と罰』

『白痴』

『悪霊』

『カラマーゾフの兄弟』

このうち、作品全体の冒頭にエピグラフが置かれているのは『悪霊』だけです。

しかも、一つではなく、二つ。

一つ目は、ロシアの国民的詩人アレクサンドル・プーシキンの詩『悪霊』(Бесы)からの引用。

吹雪の中、旅人が道を見失い、周囲を飛び交う得体の知れないDemonに翻弄される詩です。

そして、二つ目は、聖書『ルカによる福音書』第8章第32~36節からの引用です。

こちらは、悪霊が豚の群れに乗り移るという逸話。

道を失う人間を描いたプーシキンの詩と、悪霊が乗り移る豚を描いた聖書。

ドストエフスキーは『悪霊』の冒頭に、あえて、この二つを並べたのです。

そこには重要な意図があったはずですし、読書会を終えた、今の僕は、

断言します。

二つのエピグラフは、2つとも、とてつもなく重要である。

『悪霊』を読み進めるにあたって、常に、二つのエピグラフを念頭に置くことで、その読書が何倍も面白いものになっていきます。

そこで、以下、一つずつ、エピグラフを検討していきますが、以後、このブログ記事では、

プーシキンの詩を「第1エピグラフ」、

豚を描いた聖書の引用を「第2エピグラフ」、

とそれぞれ呼称して議論を進めていきます。

第2エピグラフ――豚へと移った悪霊

そのうえで、まずは、第2エピグラフから議論していきます。

これは、本文を1周すると、第2エピグラフの存在意義が、ある程度、わかりやすいからです。

まず、英語訳の第2エピグラフを引用します。

Now a large herd of swine was feeding there on the hillside; and they begged him to let them enter these. So he gave them leave. Then the demons came out of the man and entered the swine, and the herd rushed down the steep bank into the lake and were drowned.

When the herdsmen saw what had happened, they fled, and told it in the city and in the country. Then people went out to see what had happened, and they came to Jesus, and found the man from whom the demons had gone, sitting at the feet of Jesus, clothed and in his right mind; and they were afraid. And those who had seen it told them how he who had been possessed with demons was healed.

Luke 8:32–36 (RSV)

ここで描かれている出来事を整理してみます。

イエスは、悪霊に取り憑かれた一人の男と出会います。

悪霊たちは、男から追い出される際、近くにいた豚の群れの中へ入ることを願い出ます。

イエスがそれを許すと、悪霊は男から出て豚たちに乗り移ります。

すると、豚の群れは一斉に崖を駆け下り、湖へ飛び込んで溺れ死んでしまいます。

一方、悪霊から解放された男は、衣服を身につけ、正気を取り戻し、イエスの足もとに座っています。

この出来事を目撃した人々は、怖れをいだきます。

人々は、悪霊に取りつかれた男が、いかにして治癒された(was healed)かを語ります。

悪霊に取り憑かれていた男は治癒された一方で、悪霊が入り込んだ豚たちは破滅する

という構造になっています。

P&Vとマグワイア――エピグラフが完全に一致する理由

コウキ:
第2エピグラフですが、P&Vとマグワイアで、一言一句違わない、完全一致ですね。

ヒデ:
はい。ここでは両者とも翻訳をしていません。

少なくとも僕たちが比較している二つの英語訳では、どちらもRSVから同じ文章を引用しています。

ここで、RSVとは、Revised Standard Version (改定標準訳聖書)の略称です。

Wikiによると、20世紀に刊行された英語聖書の翻訳で、1952年に全巻が完成したとのことです。

英語聖書として有名なKing James Version(欽定訳聖書)の伝統を受け継ぎながら、現代の読者にも理解しやすい英語を目指した翻訳だそうです。

二つの英語訳は両者とも出典をRSVと明示しており、翻訳者独自の違いはないのです。

第2エピグラフ日本語訳3種類を比較――米川訳だけが長い?

ロキ:
実は、日本語訳では、引用の範囲に違いがあった。

英語訳、第2エピグラフの末尾に注目してみてほしい。

RSVの引用は、次の一文で終わっている。

And those who had seen it told them how he who had been possessed with demons was healed.

つまり、悪霊に取り憑かれていた男が癒やされたことを、目撃者たちが人々に告げる場面で終わっている。これを前提に3つの日本語訳を見てほしい。

米川正夫(1959年、岩波文庫)

ここに多くの豚のむれ山に草をはみいたりしが、彼らその豚に入らんことを許せと願いければ、これを許せり。悪鬼その人より出でて豚に入りしかば、そのむれ激しく馳せくだり、崖より湖に落ちて溺る。牧者(かうもの)どもそのありしことを見て逃げ行き、これを町また村々に告げたり。ひとびとそのありしことを見んとて、出でてイエスのもとに来れば、悪鬼の離れし人、着物を着け、たしかなる心にてイエスの足下に坐せるを見て、おそれあえり、悪鬼に憑かれたりし人の救われしさまを見たる者、このことを彼らに告げければ、ゲネセラ地方の多くのひとびとイエスにここを去らんことをねがえり。これ大いにおそれしがゆえなり。イエス舟にのりて返りぬ。

ルカ伝第8章第32節―第37節

江川卓訳(1971年、新潮文庫)

そこなる山べに、おびただしき豚の群れ、飼われありしかば、悪霊ども、その豚に入ることを許せと願えり。イエス許したもう。悪霊ども、人より出でて豚に入り足れば、その群れ、崖より湖に駆け下りて溺る。牧者ども、起こりしことを見るや、逃げ行きて町にも村にも告げたり。人びと、起こりしことを見んとて、出でてイエスのもとに来たり、悪霊の離れし人の、衣服をつけ、心もたしかにて、イエスの足もとに坐しおるを見て懼れあえり。悪霊に憑かれたる人の癒えしさまを見し者、これを彼らに告げたり。

ルカ福音書、第8章32-36節

亀山郁夫訳(2011年、光文社古典新訳文庫)

ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。

悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事をみようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。

「ルカによる福音書」(第8章32~36)

江川訳、亀山訳も、ルカ福音書の第8章第32節~36節までを引用してる。

ところが、米川訳では、その先、第37節まで引用していた。

米川訳では、周囲の人々がイエスにその土地を去るよう願い、イエスが舟に乗って立ち去るところまで引用されている。

ヒデ:
これは、米川訳が、ドストエフスキーの原典を超えて、あえて追加で引用した可能性が高いですね。

しかし、エピグラフは、作者が何を選び、どこで引用を終わらせたかということ自体、非常に重要ですよね。

とりわけ今回のように、作品全体を象徴する引用なら、終わり方が変わることで読者の印象、読解指針としての意味合いも変わってきてしまいます。

コウキ:
確かに。

第36節で終われば、悪霊に取り憑かれた人が「治癒された」、というところに焦点が当たります。

でも、その先まで読むと、治癒された人がいるにもかかわらず、人々はイエスを追い払ってしまうという、別の問題が浮かび上がりますね。

ロキ:
そうだよね。

これは、米川訳が、ちょっと引用しすぎたかもしれない。

いわばサービス精神が旺盛すぎた(笑)。

追加部分があると、第2エピグラフから、

治癒がもたらされたとしても、人々がそれを歓迎するとは限らない。

むしろ、治癒をもたらした存在そのものを恐れる、

という別の重大なテーマにまで発展してしまいそうだよね。

ヒデ:
ドストエフスキーの含意として、もしかしたら、そういうことはあったかもしれません。

聖書の内容がわかっている人であれば、そこまで連想が進むでしょうから。

でも、ドストエフスキーは、そこをあえて引用しなかったのです。

本編においてもあえて語られていないことがある。

そうすると、この、あえて引用しないという態度自体が重要だと思うのです。

そういう意味で、米川訳は、不正確というしかないですね。

ただ、

引用された文章だけでなく、引用されなかった文章にも目を向ける

ということはとても重要なことだと思います。

そうすることで、作者が何を強調しようとしたのか、何をあえて語らずに読者に委ねたのかを、より深く考えることができるようになる気がします。

「悪鬼」なのか「悪霊」なのか――タイトルに潜む翻訳の問題

ロキ:
もう一つ、日本語訳を比較していて興味深かったのが、悪霊を表す言葉。

米川訳では「悪鬼」。

江川訳と亀山訳では「悪霊」。

この点、英語訳では、作品タイトルも、聖書の引用も、Demons で、わかりやすかったね。

ヒデ:
英語で読んでいると、作品のタイトルと聖書のdemonsが自然につながります。

しかし、日本語の『悪鬼』と『悪霊』では、少し印象が変わるように感じます。

しかも、タイトル自体は『悪霊』なわけで、読者は、タイトルの「悪霊」と引用文中の「悪鬼」には、何か意味合いに違いがあるのではないか、と感じてしまいます。

ロキ:
ロシア語の原題は『Бесы』。

単数形はбесで、悪霊、悪魔、魔物といった意味まで持つ言葉で、日本語の「悪霊」よりも含意は広いかもしれない。

そうすると、米川訳は、聖書における言葉の意味合いを限定したかったのだろうか。

ヒデ:
そうなんでしょうね。

ただ、同じ一つの単語に込められた様々な含意を、読者が、各自の読解のなかで、自由に幅広く想像することは、読書におけるもっとも重要な楽しみの一つです。

ドストエフスキーは、タイトルと聖書引用で共通の単語を用い、その単語から何を想起するか、読者にゆだねたと考えられます。

そうすると、特定の意味に限定した言い換えはいかがなものでしょうか。

ロキ:
まあね。

米川訳は、現在、簡単に入手できる日本語訳のなかでは最も古い翻訳だから、その辺、配慮が行き届いていなかった面はあるかもな。

第3部第7章第2節――ステパンが明かす第2エピグラフの意味

ロキ:
米川訳には、

  • 「悪鬼」というタイトル『悪霊』と異なる単語を用いたこと、
  • 第37節という余分な引用をしたということ、

という2点の問題点があった。

これらがかなり問題だと思うのは、第2エピグラフの意味について、

実は本文の中で、かなり明示的に説明されていることなんだよね。

そことの整合性という意味で、米川訳にはやはり問題がある。

ヒデ:
ロキさんご指摘の部分は、第3部第7章第2節ですね。

(以下、部・章・節を、たとえば、第3部第7章第2節であれば、次のように表記します。3-7-2)

たしかに、そこで、ステパンの口から、この第2エピグラフの意味が語られていました。

それにより、読者はある程度はっきりと、第2エピグラフの読み方がわかり、だからこそ、僕たちもまず、第2エピグラフについて検討したのです。

簡単に状況を整理しておきます。

3-7-2における第2エピグラフの説明

物語の終盤。

町を離れたステパン・トロフィーモヴィチは、ソフィヤ・マトヴェーヴナと出会います。

病に倒れ、死を目前にしたステパンは、彼女に聖書を読んでもらいます。

ソフィヤが読み上げるのが、まさに第2エピグラフとして引用されていた『ルカによる福音書』第8章第32節~第36節なのです。

ステパンは、悪霊に取り憑かれていた男を「ロシアという国」に重ね合わせ、豚の群れを、自分自身を含むロシアの人々に重ね合わせます。

ロキ:
ステパンの解釈では、悪霊を追い出された男がロシアという国そのものなんだよね。

そして、悪霊が入り込んで湖に飛び込む豚たちが、ステパンやピョートルたちを象徴している、とステパン自身が語っている。

ヒデ:
ロキさんのご指摘通りだと思います。

第2エピグラフについては、ステパンがわかりやすく説明していました。

コウキ:
ステパンは自分自身も豚の一頭だと考えていたのですね。

ロキ:
そう。

ステパンは、自分もまた、ロシアを惑わせてきた人間の一人だったと認めているんだと思う。

彼は、若い頃には進歩的な思想を掲げ、自由主義的な知識人として振る舞っていた。

しかし、実際には、ヴァーヴァラ・ペトローヴナの庇護のもとで生活し、自分の思想に伴う責任を十分に引き受けてきたとは言い難い人物だった。

そして、その息子ピョートルは、父親の世代が語っていた進歩や改革を、まったく異なる形で実行しようとする。

コウキ:
なるほど。

そう考えると、「悪霊」がロシアにおける「思想」を象徴しており、

ステパンとピョートルの親子関係が、ロシアの思想史の縮図のようにも見えてきますね。

そして、結局その「悪霊」=「思想」が入り込んだ、「豚」=「ステパンたち」は破滅していく。

ロキ:
そうなの。

父親の世代が思想を語り、息子の世代がその思想を過激化させる。

しかも、前世代の思想を有する父親は息子の行動を見て驚き、恐れる。

コウキ:
息子の思想が突然生まれたわけではない、

ステパンたちの世代が生み出したものと無関係ではないということですね。

だからこそ、ステパンが自分を豚の一頭に数えているのではないでしょうか。

単に息子の世代を非難するのではなく、自分自身の責任も認めているというわけです。

ロキ:
私は、ここに、19世紀ロシアの思想的な対立が反映されていると思っている。

1840年代の自由主義的な知識人と、1860年代以降に台頭した急進的な若者たち。

両者は対立しているが、同時に、思想的な連続性も持っていた。

ステパンとピョートルの親子関係は、その世代間の断絶と継承を、痛烈な皮肉を込めて描いているように思えるんだよね。

ロシアは本当に癒やされたのか?――コウキ君の鋭い異論

コウキ:
自分は、第2エピグラフに象徴される、「ロシアという国」と「悪霊的思想」との関係について疑問があります。

第2エピグラフでは、悪霊を追い出された男は正気を取り戻します。

そのうえで、イエスに癒されたと言われています。

英語では、次のように表現されています。

he who had been possessed with demons was healed.

Healed。

癒やされた。治された。

それでは、『悪霊』という小説において、ロシアは本当に癒やされたのでしょうか。

ロキとヒデの感想:癒された。

ヒデ:
いきなり、素晴らしい疑問が提示されました。

ロキさん、いかがでしょうか。

ロキ:
コウキ君の視点にはいつも感心させられる。本当に大学生?

それにしても、なかなか難しい問いだね。

で、これは印象なんだけど、私は、3-7-2におけるステパンの言葉から、

作者ドストエフスキー自身はロシアが癒やされることを願っていたのだと思う。

ヒデ:
直感ですが、僕もそう思います。

物語の最終盤では、町を襲った一連の事件が収束し、平穏を取り戻していく。

だから、少なくとも作品の構造としては、悪霊が去り、町が平穏を取り戻すという方向に向かっているように感じます。

このことが、その後、ロシアという国も治癒されるということを象徴している、少なくとも、その願いが込められていると読めないでしょうか。

コウキ反対意見:癒されていない。

コウキ:
実は、自分は、お二人の意見に反対で、『悪霊』の結末時点で、ロシアはまだ癒やされていないと思うんです。

ヒデ:
おお!

それはどうしてですか?

コウキ:
豚にたとえられた人間たちの中で、最も重要な役割を果たしていたのは、ピョートルですよね。

ヒデ:
それは間違いないですね。

陰謀を組み立て、人々を操っていた中心人物です。

コウキ:
でも、ピョートルは最後まで捕まらない。逃亡して、その後どうなったのかも、はっきりとは語られません。

ロキ:
確かに、彼の結末はほかの登場人物たちとは違い、はっきりとは語られていないね。

コウキ:
聖書では、悪霊が乗り移った豚たちは、みんな湖に飛び込んで溺れてしまいますよね。

でも、小説では、一番危険な豚が生き残っているんです。

ヒデ:
……なるほど!

コウキ:
そうすると、ピョートルはまた別の場所で、同じような陰謀を企てることができるわけです。

彼が生きている限り、悪霊は完全には追い出されていない、

すなわち、治癒はされていない、

のではないでしょうか。

ヒデ:
面白い!!

これぞ、英語多読の成果ですね!

英語を通じてこういう読解をしているコウキ君は、英語多読する大学生のお手本というべきでしょう。

主要人物たちが次々に破滅していく中で、ピョートルだけは逃げ延びるか、少なくとも、その後が不明。

しかも、彼は思想を捨てたわけでも、悔い改めたわけでもない。

ロキ:
そう考えると、エピグラフと小説の結末には、重要な食い違いがあるね。

聖書では悪霊が追い出されて男が癒やされる。

でも、小説では悪霊を広めた中心人物が生き残ってしまう。

ヒデ:
そうすると、ピョートルを豚の一頭と考えるかについても、解釈は変わりそうですね。

ピョートルを豚と評しているのはあくまでステパンの意見であって、実際のところは、違った見方もできるかもしれませんね!

コウキ:
自分は、むしろ、ピョートルが、悪霊を次の人間に取り憑かせる役割も果たしている。いや、もっと言うと悪霊そのもののように感じます。

ヒデ:
なるほど。

つまり、ステパンが豚と評した息子ピョートルは一人の人間でありながら、実は、悪霊的思想を体現した悪霊そのものなのかもしれませんね。

事件は終わった。しかし、事件を生み出した思想は、本当に消えたのか?

こうした問いが残るのも『悪霊』の面白さではないでしょうか。

そう考えると、第2エピグラフが、『ルカ福音書』第8章第36節における、伝聞としての「治癒」であえて区切られていることにも意味があるような気がしてきます。

つまり、その後の行く末、伝聞では「治癒」したと言われているけれども、実際に「治癒」したか否かは読者の想像に委ねる……。

こう考えると、とても面白い読み方ができますね。

『悪霊』はロシア革命を予言した小説なのか?

ヒデ:
しかも、コウキ君の解釈は、ロシアのその後の歴史を考えると、ますます興味深くなります。

『悪霊』が発表されたのは、1871年から1872年にかけてのことです。

その約半世紀後、1917年にロシア革命が起こります。

ロマノフ朝帝政ロシアは崩壊し、十月革命を経てボリシェヴィキが権力を掌握する。

もちろん、19世紀後半の革命運動と、20世紀初頭のボリシェヴィキ革命を、単純に同一視することはできません。

思想的背景も、組織の規模も、歴史的条件も異なります。

しかし、ドストエフスキーが描いた、少数の急進的な思想家たちが秘密結社を作り、暴力や陰謀によって社会を変革しようとする構図は、後のロシア史を知る読者に強烈な印象を与えます。

ロキ:
ドストエフスキーは、ロシア革命そのものを知っていたわけではない。

でも、後にロシア社会で大きな力を持つことになる思想や運動の危険性を、非常に早い段階で文学として描き出していたと言えるかもしれないと思った。

コウキ:
そう考えると、ピョートルが逃亡する結末は、ものすごく不気味だと思います。

彼は物語の外へ逃げていく。そして、その後のロシアの歴史へ入り込んでいくようにも見える。

ロキ:
ただ、ステパンのセリフには、ドストエフスキーの願いが込められていた可能性も忘れてはいけないと思う。

ドストエフスキーは、ロシアが悪霊から解放される可能性を、最後まで捨てていなかったと思うんだよね。

ヒデ:
そうですね。

そして、僕は、ロキさん、コウキ君の意見を聞いて、このエピグラフには二つの読み方があると思いました。

一つは、希望としての読み方。

悪霊に取り憑かれたロシアも、やがて正気を取り戻し、癒やされる。

もう一つは、警告としての読み方。

悪霊はまだ去っていない。思想の感染は続き、やがてさらに大きな破局をもたらすかもしれない。

いずれの読み方が読者の皆様の好みに合うでしょうか。

さらに衝撃的な事実――エピグラフを置いたのは……。

ヒデ:
さて、ここまでの議論だけでも、十分に興味深いものでした。

しかし、僕が第2エピグラフについて最も衝撃を受けたのは、実は別の箇所です。

ロキさんが指摘してくれた、3-7-2。

ステパンがソフィヤ・マトヴェーヴナに聖書を読んでもらう場面です。

ここに、次のような文章が登場します。

P&V(3-7-2)

Sofya Matveevna knew the Gospel well and immediately found in Luke the same passage I have placed as an epigraph to my chronicle. I quote it here again:

実は、僕、1周目で、この箇所を読み過ごしていました。

その後のソフィヤによる『ルカ福音書』朗読に気を取られていたのです。

ところが、2周目、改めて、この英文を読んだとき、僕は思わず、ハッと立ち止まりました。

I have placed as an epigraph to my chronicle.

「私が自分の年代記のエピグラフとして配置した」

普通、エピグラフというものは、作者が小説の冒頭に設置するものです。

小説の外側から、作品全体の意味を暗示する文章として配置されます。

ところが、『悪霊』では違う。

第2エピグラフを冒頭に設置したのは、物語の内部でchronicleを書いている語り手自身だというのです。

つまり、このエピグラフは、物語の内側に存在している。

『悪霊』の語り手は、

ステパンと親しい関係にあり、町で起こった事件を記録している男。

僕たち読者が読んでいる『悪霊』は、少なくとも作品の形式上は、彼が編纂した年代記なのです。

そして、その年代記の冒頭に、彼自身が聖書のエピグラフを置いた。

四大小説の他作品、『罪と罰』、『白痴』、『カラマーゾフの兄弟』は、いわゆる三人称小説であり、語りの視点は、いわば神の目線と考えていいはずです。

しかし、『悪霊』は違う。

『悪霊』の語り手は、全知全能の神ではない。

このエピグラフが、物語の全知全能の神としてのドストエフスキーが設置したものではなく、

一人の登場人物である、語り手によって設置されたとなると、

そこには、

語り手の恣意が入り込む余地が生じる――。

語り手が、一連の事件をどのように理解し、どのような意味を与えようとしたのか。

その解釈が、エピグラフに反映されている可能性があるのです。

『悪霊』は、語り手による事件の解釈である

コウキ:
そうなると、自分たちはエピグラフを読むときにも、語り手を信用していいのかという問題を考えなければならなくなるということでしょうか。

ロキ:
語り手の恣意が入り込んでいるとすると、ピョートルが逃げ延びているということもあり得るのかもしれませんね。

ヒデ:
語り手は、ステパンによって語られた聖書『ルカ福音書』の解釈を通じて、『悪霊』を、

ロシアが癒やされる物語に見せかけようとした。

ところが、実際の彼の記録には、異なる意図があった……。

コウキ:
その考え方、すごく面白そうです!

ワクワクしてきました。

ヒデ:
そうですよね。

そして、その語り手の意図を推し量ることこそ、『悪霊』2周目の読書の面白さだと思うんです。

事件の語り手が、なぜそのように事件を語ろうとするのか。

コウキ:
しかも、英語訳を比較していると、chronicleという言葉が自然と目に入ってきます。

これは単なる小説ではなく、語り手が編纂した記録なのだということを、強く意識させられます。

ロキ:
少なくとも、第2エピグラフを作者の言葉としてだけ読むのでは不十分なんでしょうね。

語り手の言葉としても読む必要があるということか……。

第2エピグラフを読み終えて――癒しは確定していない

ここまで、聖書から引用された第2エピグラフについて議論してきました。

最初は、悪霊が人間から豚へ移り、豚が湖に飛び込むという、奇妙な逸話にすぎないように見えました。

ところが、1周目を読み終えて振り返ると、次々と重要な問題が浮かび上がってきました。

悪霊とは、ロシアに入り込んだ思想なのか。

ピョートルは、本当に同じ豚の群れに属するのか。

そして、ピョートルが逃げ延びた以上、ロシアは本当に癒やされたと言えるのか。

『ルカ福音書』から引用された第2エピグラフは、悪霊に取り憑かれていた男が癒やされたという伝聞によって、終わっています。

しかし、『悪霊』という小説では――。

エピグラフを配置したのが語り手自身である以上、その治癒への希望もまた、一人の人間による事件の意図的な解釈として読み直す必要が生じる……。

一度目の読書では、複雑な登場人物たちの関係や出来事の流れを追うだけで精一杯だった『悪霊』。

しかし、ステパンの言葉や、結末を知ったうえで冒頭のエピグラフに戻ると、作品全体が、まったく違う姿を見せ始める。

これだから、ドストエフスキー英語訳の再読はやめられません。

次回予告――第1エピグラフ、プーシキンの『悪霊』が仕掛けた謎

さて、今回は、聖書『ルカ福音書』からの引用である第2エピグラフを検討しました。

それでは、第1エピグラフはどうでしょうか。

プーシキンの詩『悪霊』。

一見すると、『悪霊』という小説の混乱した世界を象徴する、不気味な雰囲気の詩です。

しかし、今回の議論を踏まえると、もう少し慎重に読まなければならないように思います。

なぜなら、

第2エピグラフは、語り手自身が自分の年代記に置いたものだったからです。

第1エピグラフも、語り手が配置したものなのか――。

そして、第1エピグラフが象徴するものとは。

実は、僕が一番気になっていたのは、そこです。

本文を読み進めていくと、終盤で、ステパンの言葉から、第2エピグラフの意味がある程度わかったように思われる。

ところが――、

その瞬間、第1エピグラフの存在が、かえって謎めいてくる。

次回は、第1エピグラフであるプーシキンの詩『悪霊』について、読書会第1回時点での僕たち3人の率直な感想を紹介します。

一度目の読書では見えなかったものが、二度目には、そのおぼろげな姿を見せてくる。

『悪霊』という小説の本当の恐ろしさと面白さは、まだ始まったばかりです。

ぜひ、皆様も、『悪霊』英語訳を読み進めていただくとともに、この記事に対するご意見やご感想、皆様の解釈を、コメント欄で教えてください。

僕たち3人とは違う読み方も、大歓迎です。

一つの小説を何度も読み、互いの感想を共有し合うことで、複合的な視点から、作品はどこまでも深く、面白くなっていくのですから。

(次回、第1エピグラフに関する記事はこちら。)

ドストエフスキー『悪霊』英語訳比較読書会3 第1エピグラフ、プーシキンの『悪霊』が仕掛けた謎【全面的にネタバレ】
ドストエフスキー『悪霊』の第1エピグラフ、プーシキンの詩を英語訳・日本語訳で徹底比較。P&V訳、マグワイヤ訳、米川訳、江川訳、亀山訳から、単数・複数、一人称、語り手の謎を考察します。

(『悪霊』英語訳比較読書会の記事一覧はこちら。)

ドストエフスキー『悪霊』英語訳比較―翻訳の比較を通じた徹底考察
ドストエフスキー『悪霊』を英語で読む!ピヴィアー&ヴォルコンスキー訳とマグワイア訳を比較し、日本語訳との違い、登場人物、思想、伏線、出来事の時系列を徹底考察。難解な大作の真の面白さに迫る英語訳比較読書会。

(ドストエフスキー英語訳関連記事の一覧はこちら。)

ドストエフスキーを英語で読む―おすすめ英語訳・翻訳比較・読書会
ドストエフスキーの『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』を英語で読む。ペンギンクラシックスやピヴィアー&ヴォルコンスキー訳など、複数の英語訳を比較し、作品の魅力や翻訳選びのポイントを紹介します。

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