(AIが生成したイメージ画像を使用しています。)
【※本記事は『悪霊』全編を読了したうえでの再読・考察記事です。結末を含む重大なネタバレがあります。『悪霊』を1周以上している、または、ネタバレをまったく気にしないという方々に向けた記事であることをあらかじめご承知おきください。】
英語とフランス語の読書が大好き、ヒデです。
前回の記事では、『悪霊』の冒頭に掲げられた二つのエピグラフのうち、第2エピグラフ、すなわち聖書『ルカによる福音書』から引用された悪霊と豚のエピソードを検討しました。

僕たちは、物語終盤、3-7-2における、ステパン・トロフィーモヴィチの言葉を手掛かりに、第2エピグラフをある程度理解することができました。
ところが、もう一つ、エピグラフが残されています。
ロシアの詩人、アレクサンドル・プーシキンの詩『悪霊』からの引用、すなわち、第1エピグラフです。
実は、こちらのエピグラフの方が、はるかに謎めいているのです。
英語訳を比較すると、二人の翻訳者が選んだ単語も、文の構造も、驚くほど違っています。
さらに日本語訳を比較すると、見過ごすことのできない日本語訳の問題点が浮かび上がってきました。
そして、このエピグラフを『悪霊』の冒頭に置いたのは、一体誰なのか。
前回に引き続き、2026年2月に実施された第1回読書会の議論を紹介していきます。
今回は、『悪霊』英語訳比較読書会メンバー3人の、1周目の読書を終えた時点における、第1エピグラフに対する印象を紹介していきます。
比較するのは、次の二つの英語訳。
そして、日本語訳の比較を担当するアドバイザーがロキさんです。
(『悪霊』英語訳比較読書会のコンセプトはこちらを参照。)

(僕とコウキ君で実施している、ドストエフスキー英語訳比較読書会のコンセプトはこちら。)

(僕とコウキ君がそれぞれ、なぜ、その英語訳を選択したかについては、次の記事を参照。)

第1エピグラフ英語訳――プーシキンの詩『悪霊』
まず、二つの英語訳から第1エピグラフを引用します。
P&V訳引用
P&V訳
Upon my life, the tracks have vanished,
We’ve lost our way, what shall we do?
It must be a demon’s leading us
This way and that around the fields.…
How many are there? Where have they flown to?
Why do they sing so plaintively?
Are they burying some household goblin?
Is it some witch’s wedding day?A. S. Pushkin, “Demons”
マグワイヤ訳引用
マグワイヤ訳
Strike me dead–can’t see the way,
It’s lost we are, what can we do?
(Could be) a demon’s leading us through fields
In circles, and we’ve gone astray.…
What’s driving them? And such a band!
What is their doleful song about?
Laying a house-sprite in the ground?
Giving in marriage a witch’s hand?Alexander Pushkin, ‘Demons’ (1830)
同じ詩とは思えない?
ヒデ:
前回の第2エピグラフは、両者ともRSV(Revised Standard Version)の聖書からの引用でしたので、英文は完全に一致していました。
ところが、今回は全然違います。
同じプーシキンの詩を翻訳しているはずなのに、翻訳者の個性がこれほど露骨に現れるものなんですね。
コウキ:
二つの英文を並べて読んでも、ニュアンスくらいしか一致していない気がします。
ヒデ:
英文構造という点では、P&V訳の方が断然わかりやすいと思います。
例えば、
We’ve lost our way, what shall we do?
道に迷った。どうしよう。
とても素直な英文で、すっきりと読みやすいですね。
コウキ:
マグワイヤ訳は、
It’s lost we are, what can we do?
ですからね。
普通なら We are lost と書くところを、語順まで変えている。
ただ、具体的な単語が多くて、情景は浮かびやすい気がします。
In circles なんて、同じ場所をぐるぐる回っている様子がすぐに想像できます。
ヒデ:
P&V訳は文の意味がわかりやすい。
一方、マグワイヤ訳は、文構造に癖があっても、具体的な情景が見えてくる。
例えば、冒頭の Strike me dead という強烈な言い回し。
これに対して、P&V訳は Upon my life。
どちらも驚きなどを表す感嘆表現ですが、読者が受ける印象はかなり違います。
コウキ:
マグワイヤ訳の方は、いきなり『俺を殺してみろ』みたいな迫力がありますね。
ヒデ:
直訳するとそうですが、慣用的な感嘆表現ですから、実際に殺してほしいわけではありません(笑)。
ただ、こういう言葉の勢いまで含めて、詩を翻訳するのは難しいのでしょうね。
ロシア語原文の意味を正確に伝えるだけでは足りない。
詩のリズム、音、感情、そして不気味な雰囲気まで、英語で再現しなければならないのですから。
マグワイヤ訳は、正確な英語訳に定評のあるペンギンクラシックスですから、原文に忠実な文構造にしたのかもしれません。
一方、P&Vは、ロシア語原文の独特な響きや構造、ニュアンスを英語で正確に伝えることで知られる翻訳者です。ニュアンスが伝わりやすい意訳をしたのかもしれませんね。
それにしても、両者の訳が違い過ぎるので、訳語が違っても変わらない共通の情報を探してみましょう。
二つの英語訳に共通するもの――人称
二つの英語訳を比較して、共通する情報を整理します。
| 注目点 | P&V訳 | マグワイヤ訳 |
|---|---|---|
| 冒頭の感嘆表現の人称 | Upon my life | Strike me dead |
| 道に迷った主体の人称 | We’ve / we | we |
| 道を惑わせる存在 | a demon | a demon |
| 埋葬される存在 | some household goblin | a house-sprite |
| 結婚する存在 | some witch | a witch |
コウキ:
こうして見ると、単語は違っても、重要な情報は一致していますね。
冒頭感嘆表現が一人称単数。
道に迷っているのは一人称複数。
道を惑わせるのは、単数(一体)の悪霊。
埋葬されるのは、単数(一体)の家の精霊。
そして、結婚するのは単数(一人)の魔女。
ヒデ:
冒頭の一人称単数による個人的な叫びから、すぐに we や us という一人称複数の言葉に移ることは、注目に値します。
そして、もう一つ。
some household goblin と a house-sprite。
この二つは、いずれも単数形ですね。
コウキ:
P&V訳の some が気になりました。
some というと、複数をイメージする人もいると思います。
ヒデ:
ここでの some は、複数を表しているのではありません。
some household goblin におけるsomeは、単数可算名詞 goblin を修飾しています。
「どこかの家の精霊」「何やら得体の知れない家の小鬼」といった、不特定の存在を示す表現なのです。
したがって、P&V訳でも埋葬される対象は明らかに単数です。
マグワイヤ訳の a house-sprite は、冠詞 a によって、英語を知らない日本人にも一目瞭然ですね。
日本語訳を比較すると、さらに謎が深まる
ヒデ:
それでは、第1エピグラフの日本語訳はいかがでしょうか。
ロキさん、お願いします。
ロキ:
3種の日本語訳、米川正夫訳、江川卓訳、亀山郁夫訳を引用する。
米川正夫訳(1959年、岩波文庫)
殺さるも痕は得わかじ
われらついに踏みぞ迷いぬ、いかがせん?
こは悪霊のわれらを荒野に導きて
四面八面(よもやも)に引き廻すらし………
数や幾ばく、いずちへぞ追われ行くらん
かく哀しげに歌うは何ゆえ?
家に棲む魔性を野辺に送るか?
はたは妖女の嫁ぎゆくらんか?―プーシキン―
江川卓訳(1971年、新潮文庫)
どうあがいても わだちは見えぬ、
道踏み迷うたぞ なんとしょう?
悪霊(おに)めに憑かれて 荒れ野のなかを、
堂々めぐりする羽目か。……
あまたの悪霊(おに)めは どこへといそぐ、
なんとて悲しく歌うたう?
かまどの神の葬(とむら)いか、
それとも魔女の嫁入りか?A・プーシキン
亀山郁夫訳(2011年、光文社古典新訳文庫)
あがいてもあがいても、わだちは見えない
おれたち、道に踏み迷った、どうすりゃいい?
鬼どもめ、おれたちを荒野に連れだし
ほうぼう引きまわす腹づもりか……
ひしめく鬼どもよ、どこへ急ぐ
どうしてああも悲し気に歌うたう?
かまどの小鬼どもを弔うか
魔女の嫁入りをうたうのか?プーシキン
古典的な米川訳と、読みやすい江川訳
ロキ:
米川訳と江川訳は、まったく表現が異なっていて、P&Vとマグワイヤくらいまったく一致していない。
まず米川訳。
これは、相当に古風な日本語だね。
私は『源氏物語』の原文を読むのも特に苦にならないから、こういう文体自体は嫌いじゃない。
むしろ、独特の格調があって、結構好き。
ただ、冒頭の、
「殺さるも痕は得わかじ」
これは、さすがにわかりにくい。
コウキ:
自分も、一読しただけでは意味が取れません。
「殺さるも」というのは、マグワイヤ訳の Strike me dead に近い感じでしょうか。
ロキ:
そうだね。
だから、米川訳とマグワイヤ訳は、少なくともこの感嘆表現について、似た方向の訳し方をしているように見える。
きっと、原文がそんな感じで、原文に忠実にしようとしたんだろうな。
一方、江川訳は、かなり読みやすい。
情景が浮かびやすい。
P&V訳と同様、読者に場面をイメージさせやすい訳文といえるかもしれない。
ロキ:
ただ、日本語訳には、英語訳と比較すると見落としやすい情報がある。
米川訳には「われら」がある。
亀山訳には「おれたち」がある。
でも、江川訳には、はっきりとした一人称代名詞が出てこない。
もちろん、日本語では主語を省略することが自然だから、それ自体が誤訳というわけではない。
でも、英語訳と並べると、語りの主体が見えにくくなるのは確かだね。
亀山訳と江川訳との類似
ロキ:
それから、亀山訳については、気になることがある。
江川訳と、表現がかなり似ているんだよね。
コウキ:
確かに。
「あがいても」「わだち」「かまど」。
同じ言葉が使われていますね。
また、言葉が現代風にくだけた表現になっていますが、想起されるイメージは江川訳にすごく似ている気がします。
ヒデ:
第1エピグラフの亀山訳は、いったいどういうことなのでしょうか。
「あがいても」「わだち」「かまど」なんていう特殊な日本語が偶然一致するなんてことあるのでしょうか?
十分に、原文を参照して、翻訳者の個性に基づいて表現すれば、プーシキンの原文の難しさ、詩を訳す難しさから、翻訳者各人で全く異なる表現になると思います。
実際、P&V、マグワイヤ、米川、江川の4者の表現は、それぞれ、似ても似つかないですし、各訳者の苦心が表現に反映されています。
単数を複数にする致命的な誤訳「小鬼ども」
コウキ:
亀山訳が、原文を十分に参照していないのではないかという疑問に関連して、自分にはどうしても気になる箇所があります。
ヒデ:
どこでしょう?
コウキ:
埋葬される小鬼の数です。
英語訳をもう一度見てください。
P&V訳は、Are they burying some household goblin?
マグワイヤ訳は、Laying a house-sprite in the ground?
でしたよね。
どちらも、埋葬される家の精霊の数は明確に一体(単数)です。
ところが、亀山訳では、
かまどの小鬼どもを弔うか
となっています。
コウキ:
小鬼「ども」というのは、明らかに複数ですよね。
どうしてここで数が変わるんでしょうか。
ロキ:
そこは私も気になった。
米川訳は「家に棲む魔性」。
江川訳は「かまどの神」。
どちらも日本語の表現だけでは数が確定しにくい。
しかし、亀山訳の「小鬼ども」は、複数であることを明示しているね。
ヒデ:
これは、
完全に誤訳だと思います。
とんでもないです。
英語訳の二つが、そろって単数になっている。
この二つの英語訳は、ヴィンテージクラシックス、ペンギンクラシックスという英語圏を背負って立つ権威あるシリーズに採用されているんです。
P&Vやマグワイヤが、ロシア語における単数、複数なんて、超絶基本的事項を間違えるわけがない。
P&Vとマグワイヤでは、訳語はすべて異なりましたが、埋葬の対象になっているスピリチュアルな存在は、「一体」すなわち、「単数」であることで完全に一致しており、ここが単数であることは明らかなのです。
ロキ:
さすがに、日本語で読む私も、これは気になって原文を確認してみた。
問題の箇所は、
Домового ли хоронят,
となっている。
домовой(ドモヴォーイ)は、ロシアの民間伝承に登場する家の守護精霊。
その домового は、ここでは単数対格なんだ。
つまり、文法上は一体のドモヴォーイが埋葬の対象になっている。
ヒデ:
ウワッ……やはり。
ロキ:
そう。
英語訳の goblin と house-sprite は、少なくとも数については原文と一致している。
一方、亀山訳の「小鬼ども」は明らかに複数として訳している。
これは、単なる印象の違いではなく、明白な文法的誤りだね。
ヒデ:
……、これは、あまりに不誠実です。
ロキさん、僕は、これを単なる文法ミスとして許容することは決してできないと思います。
埋葬の対象を単数とするのか複数とするのかは、本文読解の足がかりとして、決定的に重要です。
コウキ:
ここは、本文中の、重要でない、ただの風景描写というわけではないですしね。
『悪霊』という小説の冒頭に置かれた、作品の顔とも言うべき、極めて重要なエピグラフです。
ヒデ:
そのとおりです。
およそ、ロシア語の翻訳者がこんな重要箇所でこんな間違いをするはずがない。
例えば、学校のロシア語文法の試験で、単数対格の名詞を複数として訳したら、数の解釈については誤答で減点されるでしょう。
ロキ:
同感だね。
原文を十分に参照したロシア語翻訳者がこんな初歩的な間違いするわけない。
この翻訳者は原文を十分に参照しなかったかもしれないな。
ヒデ:
これは決して許されません。
改めて、僕は、
英語訳で『悪霊』を読んで本当に良かった、
日本語訳を読まずに済んで助かった、
と思っています。
ただ、僕にとっては、不誠実な翻訳態度以上に、もっと本質的な読解上の大きな問題があると考えます。
ここでの単数という情報が、作品の解釈として、決定的に重要であり、これを複数にしてしまうということは読者にとっての作品そのものを変えてしまうかもしれないのです。
なぜ「一体」であることが重要なのか――『悪霊』における死
コウキ:
ヒデさんの憤りはわかりました。
でも、ヒデさん、一体と複数で、そこまで読解が変わるのでしょうか。
ヒデ:
変わります。
考えてみてください。
埋葬とは、当然ながら、死を連想させる行為です。
そして、『悪霊』という小説では、数多くの死が描かれます。
これほど多くの死が描かれる作品の冒頭で、ドストエフスキーは、一体の家の精霊を埋葬するという詩を掲げているのです。
これが偶然なのか。
僕には、とてもそうは思えないんです。
ロシアの家の守護精霊が何を象徴しているのか、そもそも、特定の人物を象徴しているのか。
抽象的な詩からは断定的なことはもちろん言えません。
しかも、詩では「埋葬しているのか?」と疑問形になっています。
実際に何かが埋葬されたと確定しているわけでもありません。
でも、
単数の何かの死にまつわる埋葬が、本編における何かの単数の死とリンクしているかもしれない。
何かはわからない。
だからこそ面白い。
読者は単数の何かを求めて本文を読み進めることができるようになるのです。
ロキ:
ドモヴォーイが一体であることは文法的な事実。
それが誰、あるいは何を象徴するのかは文学的な解釈。
単数であることはその解釈指針となるということだね。
ヒデ:
まさにそのとおりです。
文法上の単数は確定できる。しかし、その単数が象徴するものがわからない。だから、単数の何かを求めて読書を進める。
亀山訳における誤訳は、
読者からこの楽しみを奪い取ったのです。
日本語訳では見失いやすい、もう一つの情報――人称
ヒデ:
もう一つ、英語訳を読んでいて気になることがあります。
それが人称です。
コウキ:
ヒデさんが気になっているのは、we と us ですね。
ヒデ:
はい。
日本語訳を読んでいると、つい見過ごしてしまうのですが、英語では、誰が語っているのか、誰が行動しているのかが、人称代名詞によって、明確に表現されます。
今回のエピグラフも、冒頭には一人称単数による個人的な感嘆表現があり、
すぐに一人称複数による主体が示されます。
We’ve lost our way.
What shall we do?
It must be a demon’s leading us.
ヒデ:
「私たち」は道に迷っている。
「私たち」を導くのは悪霊に違いない。
ところが、日本語では、主語を省略しても自然な文章が成立してしまう。
江川訳では、主語が誰か、何人かは意識されません。
率直に言って、これは、日本語の欠陥だと思います。
少なくとも、ドストエフスキー『悪霊』を読む場合には、人称の違いが重大な意味を持つと僕は思っています。
なぜなら、『悪霊』は、一人称の語り手によって語られる小説だからです。
それを意識しにくい日本語訳では、『悪霊』を楽しみ尽くすことは決してできないのです。
「私」と「私たち」の距離
コウキ:
たしかに、『悪霊』の語り手は、相当頻繁に our とか us を使いますよね。
ヒデ:
まさに、そこなんです!
普通の一人称小説では、I, my, me が中心になります。
もちろん、『悪霊』にもそれらは登場します。
しかし、この作品では、we, our, us が多すぎる。
語り手は、一人の個人であるはずなのに、しばしばourの側から語るのです。
コウキ:
言われてみると、一人称単数の I なら、その人物の視点だとわかります。
でも、一人称複数の we になると、どこまでの人間が含まれるのか、わからなくなりますね。
ヒデ:
そのとおりです。
一人称複数は、語り手の立場を示していながら、語り手の正体を曖昧にすることがある。
僕は、この二重性が非常に面白いと思うんです。
「無色透明な一人称」は存在するのか?
ヒデ:
人称に関連して、日本語には、もう一つ重大な欠陥があります。
それは、人称表現です。
日本語には、
「わたし」「ぼく」「おれ」「わし」「われ」
など、さまざまな一人称があります。
しかも、それぞれに性別、性格、年齢、社会的な立場を連想させる色がついています。
コウキ:
確かに、たとえば「おれたち」と「われら」では、印象が全然違いますね。
ヒデ:
米川訳の「われら」には古典的な格調がある。
亀山訳の「おれたち」には、くだけた印象がある。
しかし、英語の we は、そのような日本語の人称表現のように話者の性格を限定することはしません。
ロキ:
つまり、ヒデとしては、最初から翻訳者に語り手の性格を決められたくない、ということ?
ヒデ:
そういうことです。
僕は、最初はできるだけ無色透明な一人称から読み始めたい。
そして、語り手が何を見て、何を知っていて、何を隠し、何を語るのか。
その情報を積み重ねることで、少しずつ一人称に色をつけていきたいのです。
コウキ:
日本語だと、各日本語訳者が選んだ一人称によって、読者が想像する人物像が変わってしまうわけですね。
ヒデ:
そうです。
『悪霊』のように、語り手の存在そのものが重要な作品では、その違いは致命的です。
英語訳・日本語訳比較から見えてくる二つのポイント
今回の英語訳・日本語訳比較で、明らかとなった、特に重要な点は、次の二点です。
① 人称の情報
英語では I / we などによって、無色透明、中立な主体を明示する。一方、日本語では主語の省略により人称があいまいになるうえ、人称表現に色がついており、その選択によって、印象が変化する。
② 単数・複数の情報
英語の冠詞や名詞の単複、ロシア語の格変化には、数についての情報が含まれており、特に、単数は明確。日本語訳では、その情報が明示されないこともあれば、翻訳者の選択によって補われることもあり、数をあいまいにする。
一周目を読み終えて、第1エピグラフに戻ると……
ヒデ:
さて、ここまで、翻訳比較、特に日本語訳の問題点の指摘が長くなってしまいました。
本題に入りましょう(まだ、本題に入ってなかったのか……汗)。
皆さん、『悪霊』を一周読み終えてから、冒頭の第1エピグラフに戻ったとき、どのような印象を受けましたか?
ロキ:
正直に言うと、ほとんど意味がわからなかった。
第2エピグラフは、3-7-2のステパンの言葉を読んで、ある程度理解できた。
でも、第1エピグラフは違う。とてもわかりにくい。
いかにも『悪霊』らしい、不気味な雰囲気を演出する詩だとは思う。
その程度の印象だったな。
コウキ:
自分も似たような印象です。
マグワイヤ訳で読んだときも、情景としては面白かったんです。
道に迷った人々。
周囲を飛び回る悪霊。
どこからか聞こえてくる悲しげな歌。
でも、それが本編のどの場面とつながるのかと聞かれると、よくわからないですね。
ヒデ:
なるほど。
実は僕も、1周目では、はっきりした印象をもつことはできませんでした。
ただ、読み終えてから冒頭に戻ったとき、漠然と、恐ろしいものが見えてきた気がしたんです。
コウキ:
……。
ロキさん、嫌な予感がします。
ヒデさんのこの言い方、覚えがあります。
ロキ:
私も知ってる。
ヒナさんがヒデを何と呼んでいるか。
コウキ:
「極論主義者」ですね。
この前の村上春樹『1Q84』英語訳読書会でも、ヒデさんは、突然とんでもない解釈を披露して、メンバー全員、度肝を抜かれました。
(『1Q84』英語訳読書会を含むスタイリッシュ英語読書会の記事はこちら。)

ロキ:
私は『源氏物語』ウォッシュバーン英語訳読書会にも参加しているから、よくわかる。
(ヒデ:ロキさんに参加いただいている『源氏物語』ウォッシュバーン英語訳読書会の記事はこちら。)

(ロキ:ちなみに私は日本語で参加しているけど、それが何か?)
それにしても、源氏に対するヒデの解釈は、毎回かなり過激だよね。
ヒナさんが呆れるのも無理はない。
ヒデ:
僕は、ただ作品を徹底的に面白く読もうとしているだけです(ニヤリ)。
コウキ:
……、やはり、これは何かありますね。
ヒデ:
ただ、今回はまだ確信には至っていません。これから、2周目の読書で、裏付けを得ようとは思っています。
一応、1周目の読書を終えた段階で、第1エピグラフについて、僕が気になっていることをお話しします。
プーシキンの詩と『悪霊』本編を結ぶいくつかの謎
一人称の詩と一人称の本編
ヒデ:
まず、僕が最も注目しているのは、第1エピグラフが一人称の詩であることです。
『悪霊』本編も一人称によって語られています。
この一致は、単なる偶然とは思えない。
ドストエフスキーが何の意図もなくこのような重なりを冒頭に設置したとは思えない。
だから、僕は、両者を重ねて読んでみたい。
詩の中では、
we
が道に迷っています。
一方、『悪霊』本編では、語り手が町の出来事を記録していく。
その語り手は、しばしば
our
という立場から出来事を語る。
コウキ:
詩のwe, ourと、小説のwe, ourが重なって見えるということでしょうか。
ヒデ:
はい。
ただし、どのように重なっているのかについては、1周目の読書では到底読み取れない。
コウキ:
なるほど。
第1エピグラフを意識することで、2周目では、語り手に注目しながら読み進めることができるということですね。
ロキ:
たしかに、読書の進め方としては面白そうだね。
「家の精霊の埋葬」と「魔女の結婚式」――二つの不可思議な象徴
ヒデ:
そして、プーシキンの詩が冒頭に置かれていることには、もう一つ気になる点があります。
第1エピグラフの末尾を、もう一度見てください。
P&V訳
Are they burying some household goblin?
Is it some witch’s wedding day?
ヒデ:
埋葬と婚礼。
死と結婚。
全く異なる二つの出来事が、連続する疑問文として提示されています。
コウキ:
しかも、どちらも普通の人間ではありませんね。
家の精霊と魔女。
どちらも超自然的な存在です。
ヒデ:
さらにそのうえ、
some household goblin、some witch。
P&V訳では、どちらも some が使われています。
不特定で、正体のはっきりしない存在。
僕には、
この曖昧な二つの超自然的存在とそれを対象とする二つの行為が象徴するもの
がとても気になるんです。
死による別離と、結婚による結合。
この対比は、非常に興味深いと思いませんか。
コウキ:
『悪霊』本編には、死も結婚も出てきます……。
おぼろげながら、自分も、ヒデさんの言おうとしていることが輪郭を持ち始めた気がします……。
しかし、そうだとすると、
『悪霊』、恐ろしすぎませんか?
ロキ:
たしかに、プーシキンの詩の意味も大切にしないといけないかもしれないな。
少なくとも、何を象徴しているか、考えながら進める読書は相当面白そうだね。
ヒデ:
一体、何が埋葬されるのか。
誰の結婚なのか。
そして、その二つを並べたことに、どのような意味があるのか。
『悪霊』2周目の読書が楽しく、ワクワクした、面白いものになるのではないでしょうか。
最大の謎――このエピグラフを置いたのは誰なのか?
ヒデ:
そして、最後にして、最大の謎が、これです。
この第1エピグラフは、誰が設置したのか。
コウキ:
普通に考えると、作者ドストエフスキーが設置したと思いますが……。
ヒデ:
確かに。一般論としては、それが自然な考え方です。
小説の冒頭に掲げられたエピグラフは、作者が作品全体の主題を暗示するために置くものですから。
ヒデ意見:語り手が設置した。
しかし、前回、僕たちは第2エピグラフについて、3-7-2から、語り手が設置したことを確認した。
そうすると、第1エピグラフについても、語り手が設置したということになるのではないでしょうか。
コウキ:
なるほど。
第2エピグラフを語り手が置いたのなら、第1エピグラフも語り手が置いたと考える。
一貫していますね。
そうすることで、
『悪霊』という本が全体として、一冊丸ごと、語り手のchronicle(年代記)と考えることができる。
自分もその読み方に魅力を感じます。
ロキ反対意見:ドストエフスキーが設置した。
ロキ:
そこ、私は反対。
私は、むしろ第1エピグラフはドストエフスキー自身が置いたものだと考えたい。
プーシキンの詩が、作品全体を外側から照らしている。
そして、第2エピグラフから、語り手の記録する物語世界が始まる。
その方が自然な読み方にも思える。
ヒデ:
なるほど。
つまり、ロキさんの読みでは、第1エピグラフは作者ドストエフスキーの視点。
第2エピグラフから語り手の世界に入る。
それも十分に考えられますね。
僕の考えは、現時点では一つの読解仮説です。
ただ、『悪霊』という作品は、語り手による chronicle、すなわち事件の記録という形式をとっています。
僕は、その形式を徹底して読んでみたいのです。
もし、第1エピグラフまで語り手が選んだものだとしたら、どうでしょう。
コウキ:
……語り手は、物語の冒頭で、読者に何かを伝えようとしていることになりますね。
ヒデ:
そうです。
しかも、プーシキンの詩を選んでいる。
道に迷った we。
人々を引き回す demon。
埋葬される一体の家の goblin。
結婚する一人の witch。
これらを冒頭に掲げたのだとしたら、語り手には何らかの意図があるはずと思えてきませんか。
ロキ:
つまり、エピグラフを単なる作者ドストエフスキーの演出ではなく、語り手の意図的な行為として読むわけだ。
ヒデ:
そうです。
エピグラフが神目線から物語を説明しているのではなく、
編纂者である語り手がエピグラフによって物語の読み方を誘導している。
そんな可能性を考えるとワクワクしませんか?
ロキ:
なるほどね。
それなら、確かに語り手の正体が重要になる。
ヒデ:
そうでしょう?
もし語り手が第1エピグラフを選んだのなら、彼はなぜ、この詩を選んだのか。
なぜ、埋葬と結婚の疑問を、読者に提示したのか。
そして、なぜ、weが道に迷う詩を、事件の記録の冒頭に置いたのか。
この問いを突き詰めていくと、『悪霊』という小説は、まったく違う姿を見せ始めるのではないかと思っています。
コウキ:
ロキさん……。
やっぱり、ヒデさんは何かとんでもないものを見つけかけている気がします。
ロキ:
私も嫌な予感がしているよ(笑)。
でも、読み方としては面白い。
作者のエピグラフとして読む場合と、語り手のエピグラフとして読む場合。
二つの読み方を比較してみる価値はありそうだ。
ヒデ:
そして、その検証のためには、まず、語り手が何者なのかを確認しなければなりません。
まとめ――プーシキンの詩が仕掛ける謎
今回の記事では、プーシキンの詩『悪霊』を、二つの英語訳と三つの日本語訳から比較しました。
その結果、いくつもの重要な問題が浮かび上がってきました。
まず、P&V訳とマグワイヤ訳は、表現こそ大きく異なるものの、埋葬される家の精霊を単数として訳しています。
そして、ロシア語原文でも、その精霊は単数です。
これに対し、亀山訳の「小鬼ども」は複数になっていた。
読者を誤導する決定的な誤訳。
次に、一人称の問題。
詩の中で道に迷うのはweです。
そして、『悪霊』本編も、語り手は、自身をourと表現して、our townの出来事を記録する形式になっています。
この二つの一人称複数は、何らかの関係を持つのでしょうか。
さらに、詩の末尾には、二つの不可解な存在。
家の精霊の埋葬。
魔女の結婚。
この二つは、『悪霊』本編に描かれる死や婚姻と、どのようにつながるのでしょうか。
そして、最大の謎。
第1エピグラフを選んだのは、作者ドストエフスキーなのか。それとも、作中の語り手なのか。
どちらの視点に立つかによって、読者が注目する対象は大きく変わります。
『悪霊』を1周しただけでは、この第1エピグラフの真の意味には到底たどり着けません。
むしろ、一周して、誰が死に、誰が結婚するのかを知ってから、ようやく考察を始められる。
そして、2周目では、事件そのもの以上に、それを語っている人物の存在が気になってくるのです。
次回予告 語り手は何者なのか――『悪霊』というchronicle(年代記)
次回は、いよいよ『悪霊』本編の形式を検討します。
『悪霊』は、全知全能の語り手がすべてを説明してくれる三人称小説ではありません。
一人の語り手が記録していく chronicle という形式。
しかし、
この語り手は、何者なのか。
彼は、何を知っているのか。
そして、なぜ、この事件を記録しようとしたのか。
『悪霊』という作品の構造を理解するために、まずは語り手についての情報を徹底的に整理していきます。
プーシキンの詩に登場する、道に迷ったwe。
その声は、ひょっとすると、物語の中から聞こえているのかもしれません。
ご期待ください。
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Demons translated by Richard Pevear and Larissa Volokhonsky(ヴィンテージクラシックス) - コウキが読んでいる、正確でわかりやすい英語訳に定評があり、英語多読素材としておすすめ、『悪霊』英語訳、
Demons translated by Robert A. Maguire(ペンギンクラシックス)
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ぜひ、皆様のご意見、ご感想、解釈などをコメント欄で教えてください。
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