(AIが生成したイメージ画像を使用しています。)
英語多読をしているのであれば絶対に『源氏物語』デニス・ウォッシュバーン英語訳を読むべき
英語とフランス語の読書が大好き、ヒデです。
僕は、英語多読を通じて英語読書ができるようになった日本人として、声を大にして言いたいことがあります。
日本人として英語多読に取り組んでいるのであれば、絶対に、
『源氏物語』のデニス・ウォッシュバーンによる英語訳(ウォッシュバーン訳)
“The Tale of Genji” translated by Dennis Washburn
を読むべきだということです。
ウォッシュバーンの明晰な英語を通して、あの難解だった『源氏物語』が、簡明で、美しく、面白く、深遠な人間ドラマとして、僕の前に姿を現したのです。
ドストエフスキーやトルストイなどの名だたる作品群とまったく遜色ない、「世界文学」だと気付かせてくれたのです。
僕は、英語読書をできるようになって本当によかったと感じている理由がいくつかあります。
その中でも、
ウォッシュバーンの英語を通じて『源氏物語』の世界に触れることが出来たこと
は、特に大きな理由です。
ウォッシュバーン訳による英語を通じて示される『源氏物語』の世界がいかに魅力的であるかについては、ヒナさん、ロキさんという二人の筋金入り『源氏物語』愛好家との読書会を通じてこれでもかというくらい深く明らかにしてますので、ぜひご参照ください。

皆様にも、ウォッシュバーンの英語を通して『源氏物語』の真の価値に気が付いていただきたいのです。
しかし、
ここで、僕は、もう一つ、
声を大にして言わなければならないことがあります。
『源氏物語』の真の魅力を英語を通じて味わいたいと思っている人も、
英語多読の一環として『源氏物語』を読みたいと思っている人も、
アーサー・ウェイリーによる英語訳(ウェイリー訳)を読んではいけない
ということです。
また、日本には、何と、このウェイリー訳を日本語に逆翻訳したものまであります。
しかし、これは、『源氏物語』を真に楽しみたい、その本質に迫りたいという観点からは、ナンセンス極まりないものになります。
このことを、これから、僕は、『源氏物語』ウォッシュバーン英語訳読書会でお世話になっている、ヒナさん、ロキさん、お二人の力を借りて、明らかにしていきたいと思います。
ぜひ、皆様も、ウェイリー訳やその逆翻訳ではなく、ウォッシュバーン訳によって、『源氏物語』の本質に迫っていただきたいと思います。
『源氏物語』を「難しい」と思っている日本人こそウォッシュバーン訳を読むべき
日本人なら一度くらい「源氏物語を読んでみたい」と思ったことがある
『源氏物語』。
おそらく、日本人でこの名前を知らない人はいないでしょう。
紫式部によって11世紀初頭に書かれた、日本文学を代表する巨大な作品です。
文学史上の「novel」の定義には議論がありますが、「世界最古の長編小説」と紹介されることもあります。
細かい定義を離れても、約千年前に、
恋愛、結婚、家族、出世、失脚、嫉妬、性愛、権力、老い、死、そして人間の心理、
これほど複雑なテーマを扱い、しかもそれを驚くべき統一感をもって形成した長大な物語が日本で生まれていたこと自体、驚異的です。
ところが、日本人の多くは『源氏物語』を知っているのに、最後まで読んだことがありません。
なぜでしょうか。
おそらく、
- 「源氏物語は難しい」
- 「学校の古文で習ったけれど、何が面白いのかわからなかった」
- 「登場人物が多すぎて、誰が誰なのかわからなくなった」
- 「現代語訳を買ったけれど、途中で挫折した」
という人がかなり多いのではないでしょうか。
実はこれ、
全部、かつての僕です。
だからこそ言えます。
そんな人にこそ、一度、
僕も日本語では『源氏物語』の面白さがわからなかった
英語多読を始める以前、僕も『源氏物語』を読んでみようとしたことはありました。
与謝野晶子。
谷崎潤一郎。
瀬戸内寂聴。
その他にも、さまざまな現代日本語訳があります。
何度か手に取ろうとしました。
しかし、第1帖「桐壺」を開いてみても、
面白さがわからない。
人物関係を理解しようとしているうちに、物語そのものへの興味が薄れてしまう。
結局、すぐに読むのをやめていました。
2019年に英語多読を始めてからもしばらく、英語原作のエンターテイメント小説を読み漁っていましたから、『源氏物語』を読むという発想そのものがありませんでした。
転機が訪れたのは2023年頃だったと思います。
その頃には村上春樹の英語訳やカズオ・イシグロの英語原書を楽しめるようになり、僕の英語読書もエンターテインメント中心から、本格的な文学作品へと広がっていました。
英語で『アンナ・カレーニナ』のような長大なロシア文学の英語訳まで読めるようになっていました。
だったら、
日本文学における古典中の古典を英語で読んでみたらどうなるのだろう?
そこで思い浮かんだのが『源氏物語』でした。
調べてみれば、英語訳は一つではありません。
Arthur Waley。
Edward Seidensticker。
Royall Tyler。
そしてDennis Washburn。
そのときは翻訳史について詳しく調べたわけではありません。
比較的新しい翻訳で、Kindleですぐ読める。
それくらいの理由でウォッシュバーン訳を選びました。
そして読み始めました。
衝撃でした。
「ウソだろ!?」
と思いました。
とんでもなく、面白い。
それまで僕が「難解な古典」として遠くから眺めていた作品が、英語になった瞬間、生身の人間たちが欲望をぶつけ合う物語として動き始めたのです。
それまでの僕の英語読書には、いくつかの決定的な体験があります。
その中でも、このウォッシュバーン訳『源氏物語』との出会いは、僕の中では第2位に置いていいほどの衝撃でした。
(ちなみに現在までの衝撃第1位は、村上春樹『ノルウェイの森』の英語訳を初めて読んだ際の衝撃です。)
なぜ『源氏物語』は英語で読むとわかりやすくなるのか
ここからが、この記事で一番伝えたいところです。
なぜ、日本人である僕が、日本文学の最高峰ともいうべき『源氏物語』を、
日本語より英語で読んだときに理解できたのか。
一見すると逆説的です。
しかし、実際に読んでみると理由があります。
理由① 英語では「誰が何をしたのか」が明確になる
『源氏物語』を難しくしている最大の要因の一つが、
人間関係です。
主要人物同士の長期的な関係だけではありません。
一つの場面の中でも、
「いま誰が話しているのか」
「誰が誰を見ているのか」
「誰が誰のことを考えているのか」
を追いかけなければなりません。
しかも古文では、英語のように主語を逐一明示する必要がありません。
平安時代の宮廷社会を知る当時の読者なら、敬語、身分関係、文脈などから読み取れたのでしょう。
しかし、千年後を生きる僕には無理です。
ここで英語が威力を発揮します。
英語では基本的に、
誰が行動しているのか、
その行動が誰に向けられているのか、
を文構造上明確にする必要があります。
heなのか、
sheなのか、
theyなのか、
himなのか、
herなのか、
これだけでも、物語の視界がかなり晴れます。
もちろん翻訳である以上、その明示には翻訳者による解釈が介在します。
しかし、
深い研究に裏打ちされた優れた英語翻訳者による解釈を英文を通じて提示されることで、物語が恐ろしくわかりやすくなるのです。
そして、圧倒的に面白くなるのです。
理由② 英語訳では「日本人なら察するはず」が通用しない
もう一つ重要なのが、
説明です。
『源氏物語』の原文には、現代の読者からすると「そこをもっと詳しく書いてくれ!」と言いたくなる場面があります。
とりわけ男女関係です。
平安宮廷社会の読者なら説明不要だったこと。
露骨に書くことが美的・社会的にふさわしくなかったこと。
文脈から察することが期待されていたこと。
そうした事情が重なって、決定的な出来事でさえ非常に婉曲に描かれることがあります。
現代日本語訳も、翻訳者によって程度は違うものの、原文の余白や曖昧さを文学的価値として尊重する場合があります。
それはもちろん一つの正しい翻訳姿勢でしょう。
問題は、
僕には察せなかった。
ということです。
ところが英語圏の読者には、そもそも平安宮廷社会の「常識」を共有していることを期待できません。
そのため英語訳では、翻訳者の判断を通して、人物関係や心理の方向性が英語の構造の中で明示されるのです。
その結果、
「そういうことだったのか!」
となる。
僕は何度もこれを経験しました。
ウォッシュバーン訳が読みやすい理由
では、数ある『源氏物語』英語訳の中で、なぜ僕はウォッシュバーン訳を推すのか。
ウォッシュバーン訳 “The Tale of Genji” は2015年にW. W. Nortonから刊行された、主要英語訳の中では最も新しい全訳です。
そして僕が実際に読んで感じる最大の特徴は、
原文のニュアンスを極めて正確に英語に置き換えたうえ、「文学としての美しさ」と「物語としてのわかりやすさ」が両立していること。
です。
ウォッシュバーンは内的独白をイタリックで示すなど、長大な物語を追いやすくする工夫をしています。
文化的背景についても、読書そのものを妨げない形で説明を組み込んでいます。
和歌についても英語の三行詩として提示するなど、単に単語を英語へ置換するのではなく、
原文のイメージやニュアンスを最大限尊重しつつ、英語の文学作品としても楽しめる『源氏物語』
を作ろうとしていることが伝わってきます。
これは英語多読をしている人間にとって非常に重要です。
僕たちが読みたいのは源氏物語の歴史的・文化的な解説ではありません。
日本語古文の研究資料でもありません。
小説なのです。
ページをめくりたい。
次に何が起きるのか知りたい。
人物に腹を立てたい。
驚きたい。
呆れたい。
喜びたい。
そして、ときには千年前の登場人物の感情から胸を締めつけられるような悲しみを共有したい。
ウォッシュバーン訳では、それができるのです。
英語で『源氏物語』を読むことは、日本文化を別のレンズから見ること
僕は、言語というものを、
世界を見るためのレンズ
だと思っています。
日本語というレンズ。
英語というレンズ。
フランス語というレンズ。
それぞれのレンズには、その言語が発達してきた文化や歴史が刻み込まれています。
だから同じ対象を見ても、違う景色が見える。
『源氏物語』を英語で読むということは、日本語とは違うレンズを使って、千年前の日本文化を見つめなおすことです。
すると不思議なことが起こります。
遠ざかるのではありません。
むしろ近づいてくる。
僕にはそう感じられました。
あまりにも「日本文化の偉大な古典」として見ていたために、かえって見えなくなっていたものがある。
光源氏も「古典の登場人物」ではなくなる。
ものすごい権力欲・性欲を持った行動的な一人の男になる。
紫の上も、古典文学史上の有名人物ではなくなる。
一人の儚い女性になる。
頭中将も、玉鬘も、女三宮も、夕霧も、柏木もそうです。
英語という日本語とは全く異なるレンズを一枚挟んだことで、ピントが合い、非常にクリアな映像と共に、彼らが、
生々しい人間になった。
これこそ、僕が英語で『源氏物語』を読む最大の面白さだと思っています。
英語多読をしている日本人に『源氏物語』をおすすめしたい理由
英語多読をしている方の中には、
- 「いつか源氏物語を英語で読んでみたい」
- 「源氏物語が英語でどう表現されるのか知りたい」
- 「日本文化について英語で話せるようになりたい」
と思っている方もいるでしょう。
その「いつか」を、僕はできれば今にしてほしいと思います。
なぜなら、ウォッシュバーン訳『源氏物語』という、圧倒的に優れた素材が、Kindleで今すぐ読むことができる状態で僕たちの前に提示されているからです。
ウォッシュバーン訳を読むことは、単なる英語学習ではありません。
英単語を覚えるために読むのでもありません。
英語資格試験の点数を上げるためでもありません。
英語を使って、自分が生まれ育った文化を見直す読書です。
これは、日本人が英語を学ぶことの一つの到達点ではないでしょうか。
英語ができるということは、単に外国人とコミュニケーションできるということだけではない。
英語という別の言語を手に入れたことで、
日本語だけを使っていたときとは違う角度から、日本を見ることができる。
その体験を、これほど強烈に味わわせてくれる日本文学は、『源氏物語』以外には考えられません。
だから僕は、
英語多読をしている日本人にとって、ウォッシュバーン英語訳『源氏物語』は挑戦する価値のある必読の一冊
だと思っています。
では、『源氏物語』の英語訳はどれがおすすめなのか?
ここで問題があります。
『源氏物語』には複数の英語訳があります。
代表的なものとして、
Edward Seidensticker(エドワード・サイデンステッカー)
Royall Tyler(ロイヤル・タイラー)
Dennis Washburn(デニス・ウォッシュバーン)
などがあります。
翻訳は、新しければ自動的に優れているわけではありません。
それぞれ翻訳思想が違います。
ですから本来なら、
「何を求めて『源氏物語』を読むのか」
によって選ぶべきです。
そのうえで、
現代の日本人が、英語多読として、あるいは『源氏物語』の物語そのものを楽しむための一冊として選ぶなら?
と聞かれれば、僕の答えは明確です。
ウォッシュバーン訳です。
ウェイリー訳ではなくウォッシュバーン訳をすすめる――翻訳史的にみてウェイリーの偉大な功績には敬意を払いたい
誤解のないように、言っておきます。
僕は、
「ウェイリー訳には価値がない」
と言いたいわけではありません。
むしろ逆です。
歴史的には極めて重要です。
ウェイリーがいなければ、英語圏における『源氏物語』の受容史そのものが違ったものになっていたでしょう。
しかし、
歴史的重要性と、現代の読者にとっての第一選択は別です。
僕が問題にしたいのはそこです。
2026年。
日本人。
英語多読をしている。
『源氏物語』を英語で楽しみたい。
人物関係を理解したい。
物語として最後まで読みたい。
そして、英語という別の言語を通して紫式部の壮大な人間ドラマを再発見したい。
すなわち、『源氏物語』の本質に迫りたい。
その条件なら、
僕は迷わずDennis Washburnを選びます。
次回予告 なぜ僕たちはウェイリー訳を選択しないのか?
ここまで読んだ方の中には、当然こう思う方もいるでしょう。
「でも、源氏物語の英語訳ならアーサー・ウェイリーが有名だし、そちらを読んだ方がいいのでは?」
これは誤った認識です。
『源氏物語』の本質に迫りたいのであれば、ウェイリー訳は適切とはいえません。
次回は、ウォッシュバーン訳とウェイリー訳を真正面から比較します。
登場していただくのは、『源氏物語』ウォッシュバーン英語訳読書会でおなじみのヒナさん。
幼少期から『源氏物語』を愛好し、しかも圧倒的な英語力を持つ筋金入りの英語読書家です。
Waley vs Washburn。
同じ紫式部の文章が、二人の翻訳者によってどれほど違う英語になるのか。
ウェイリーの英語は確かに美しい面もありますが、いかんせん古い。
より優れた英語訳が存在する状況で、歴史的な業績だけを根拠に、盲目的にそれを「名訳」と呼ぶべきなのか。
そして、
2026年の日本人が『源氏物語』を英語で読むとき、本当にウェイリーを選ぶ理由があるのか。
実際の英文を比較しながら、ヒナさんと容赦なく検討していきます。
さらに次々回では、同じく、『源氏物語』ウォッシュバーン英語訳読書会でおなじみでありつつ、ドストエフスキーの日本語訳比較でも登場していただいた、ロキさんとともに、
「英語になった源氏物語を、なぜもう一度日本語に戻すのか?」
という、ウェイリー版「逆翻訳」の問題に踏み込みます。
なぜ、日本には、ウェイリー訳を逆に日本語訳に翻訳しなおした、「逆翻訳」が存在するのか。
このような「逆翻訳」を読むことが、『源氏物語』の本質に迫るという観点から果たして有意義なのか。
もちろん有意義なわけがありません。
この点を、ロキさんとともに明らかにしていきます。
ウェイリーの翻訳史における歴史上の偉大な功績は、
いま自分が読む一冊としてウェイリー訳を選ぶ根拠とはなりません。
『源氏物語』英語訳の世界は、ウェイリーで終わってはいない。むしろ、ウェイリー訳は始まりに過ぎなかったのです。
現代日本の英語読者にとっては、
ウォッシュバーン訳によってこそ、『源氏物語』の扉が開かれる。
次回、まずは、ヒナさんとの対話の中から、ウェイリー訳とウォッシュバーン訳を対比し、ウェイリー訳の問題点を深く掘り下げます。

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